2024-01-30

mosktch

2019年からズルズルと続けていたmotion sketchがようやく100に届いた。100個作ると数字を決めてから始めたので、他のテーマと比べると幾分か長引いてしまった。スプライン使ったあれこれは今後も続けるとして、このシリーズとしては一旦終えるつもりだけれど、mosktchとは何だったのかを一度振り返っておきたい。


きっかけ

2015年頃、仕事で提案した手法の1つが原型となった。X-Particlesの軌跡をスプライン化して、Sketch&Toonでレンダリングしたのが最初だったと思う。線のみにS&Tを用いた見た目が新鮮で、かつ想像以上に醸し出される手描き感に感動したのを覚えている。

一方で案件自体は途中からぱったりと音沙汰がなくなった上、気付けば別の布陣で完成・公開されており、その悔しさと手法への感動が入り混じって忘れられず、4年後の2019年に掘り起こすに至る。


量と質

一番最初はトキワブルーに憧れて、あとは最近出会ったオタクギョタク、岡崎さんのMatches, Beeple氏のEverydaysなどなど… 日々様々な形で量産もしくは継続する方々の背中を見るにつけ、漠然と一度まとまった量を作ってみる体験がしたかった。でも自分じゃ一晩で100は無理だし、1週間でも厳しいので3ヶ月位かな。。と思っていたが結局3年以上かかってしまった。一応ミニマムな量的達成はあったものの、短期集中でもなければコツコツ継続できてもいない状況で体験としての意義はあやしい。そして200, 300... を超えても淡々とその先へ進める人たちとの間の圧倒的距離を知る。


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テーマ

基本的に上で書いた以上の動機はなく、コンセプトなども皆無であったけど、続けているうちにいくつか意識するようになったテーマを3つ挙げてみる。


Ⅰ: 不完全さ

mosktchのアナログ感は全てノイズの組み合わせで醸成されており、つまりはデジタル表現の賜物なっている。筆圧のブレ、鉛筆の傾き、筆跡の歪み、撮影する紙やカメラの位置ズレ、黒鉛や紙のテクスチャ、さらに線のはみ出しや塗り残し、円を描くときの開始角度など、考えうる全てのレイヤーにそれっぽいノイズやランダムさを加えることでパッと見の「アナログ感」を作ろうと試みている。(気を配れば本来入り込まないような要因まで入れ込んで、ややアナログ感を過剰演出している節もある)

Substance Designerなどで作られるマテリアルはノイズ芸の最たるものだ。要素の全レイヤーに対して細かくチューニングを重ねた結果、見慣れたCG的ノイズの合算だったものが突然リアルにしか見えない瞬間が訪れる。それはたとえその構成要素を知っていても抗えない感覚で、その越境にずっと興味があるというか、計算機に対するロマンを見ている気がする。

過程で作ったスプライン操作のあれこれも、結局ほとんどは人間や自然物の不完全さを再現するためのもので、まとめ動画のタイトルを「Imperfections」にしようかと思ったくらい、全体で共通のテーマになっている。(後付けでかっこつけるのも小癪なのでやめた)


Ⅱ: 線

ほぼ認識上の概念である線という存在が、折れたり膨らんだり分裂したりと、実体や物性を持つだけで面白いな、という動機だけでいくつかは作った。でもそう短絡的に済む話ではない気がするし、全然掘り足りないので継続してやっていきたい。線が伸びると気持ちいい、とかは自分のモーション原体験な気がするけど、それもまだ上手く説明できない。


Ⅲ: 小手先頼り

自分の知識や技術力が上がる一方で、グラフィックや映像の表現力は年々落ちている実感が開始の時点で既にあったので、このシリーズには「小手先でたくさん作る」という目論見もあった。手法そのものは最初の数作でほぼ完成していたし、あとは形や動きを試行錯誤し続けることに集中できると踏んでいたのだけど、この点は見事に失敗に終わった。

たまに意識的に表現のみに振ろうとするも、基本的な動機がどうしても仕組みづくりに偏ってしまう。いざまとまった手法ができても使い回すことに謎の罪悪感が芽生えてしまい、ひどいときには毎回小さな新規プラグインを作っては疲弊し、雑に最後ちょろっと使うような状況に陥ってしまった。


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皮肉にも、技術的には想像もしていなかったブレイクスルーが何度かあったし、小さなパズルを解き続けたことで仕組みづくりは随分早くなった気がする。本気で表現と向き合うにはもっと極端な割り切りが必要そうだけれど、いい加減自分の変えがたい性質と折り合いをつけていくべきとも思う。

そしてこれだけ手描き風ルックを続けたが、どちらかというと自分は素直にデジタルの特性 (完璧な直線や曲線、ムラのない塗り、完全に均一なコマ補間など) を活かした表現が好きで、途中からこのデジタルでアナログを模し続ける不毛な行為に何とも言えないもどかしさを覚えるようになった。結局どこまで行っても手描きには敵わないし、なぜ滑らかに破綻なく作ったスプラインの挙動を8fpsに落とした上でガタガタとノイズまで加えなければならないのか... と憤りすら覚えることもあった。自業自得というほかない。

今のところ自己紹介がてらにさっと見せられるinstagramアカウントがこれしかなく、初対面で「(あっ) 謎のアナログ風アニメーション作家(もどき)ね」という分類の避けられない状況を今年は何とかしたい。CGをがんばります。


2023-09-01

引越

郊外から都内へ戻ることになった。

20代の頃は都内を10回以上引越す引越狂いだったけれど、30代に入ったここ数年、少し郊外へと足を伸ばしてみた。これまで一度も賃貸契約の更新を迎えないまま点々としていたのに、今回は二度目の契約更新も差し迫るほどになっていて、流石にちょっと引き剥がすのに苦労する程度には根が張られた感覚があった。

移り住んだ当初は、さらに都心から離れるための練習台にしようとしていた節があったものの、結局戻ることになったのでその観点では失敗といえる。けれどこんな自分でも、いざとなればスーパーへ出向き食材を買い調理をするに至るのだと分かり、憧れていた車生活はやっぱり最高に楽しいということも分かったので、収穫がゼロというわけでもない。都心から離れても、まあ何とかなるのだと具体的な想像が進んだ。

ちょうど世間がコロナ禍になったのも移住と重なっていたので、立地の利便性よりも居住空間に家賃を全振りしていたのもラッキーだった。世間がオンラインベースになり、仕事もほぼ在宅だったけれど、適度な部屋数と平米数のお陰で家で息が詰まるということがあまりなかった。たとえ機能的に困らずとも、息をするための空間というのは在宅時間に比例して必要らしい。

都内に戻るとやっぱり何もかも便利だなと思うし、ごく普通の駅前の人や店の密度につい胸が踊ってしまう。その辺の通りや街角単位のスケールで、当然のように文化や歴史が積み重なっているのが感じられ、逆にこの密度が普通になると日本の大半の場所が空虚に思えてしまいそうだけれど、それはそれでどうなのか。

都内へ戻ると同時にシェアオフィスにも入ることになり、ひたすら家に籠もっていたここ数年を思うと、単なる生活圏の移動以上の転機になりそうだと感じる。外に出て人と会い、もう少し身も心も外へ開いていきたい。コロナ禍開けの世間にもそんな空気を感じる。


2023-08-06

作業の比重

道筋さえ見えていれば1日とかからないはずの仕事が、色々悩んでしまって1週間かけても終わらないと、申し訳無さと不甲斐なさで気持ちが日に日に沈んでいく。そういう場合、それは単なる作業ではなく、道筋を見つける事自体が仕事であると認識を改める必要がある。でも自分の受け取る仕事の対価が、作業自体よりも悩むことの方に比重があると認めることが、実は結構難しいことなのではないかと感じる。

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「デザイナー」という職業を思うと、想像する仕事は作業というより思考そのものだ。ビジュアルデザインであれば、受け取ったお題を整理したり膨らませたり、モチーフや造形を検討したり。もっと広義のそれであれば、新たな軸や視点を探したり。たとえ最終的な納品物がロゴの形ひとつであったとしても、その人の知見を踏まえた思考そのものに対価を払うイメージがある。名詞的に使われる「クリエイティブ」とも言い換えられる気がする。

一方で「映像制作業」、特に「CG制作業」を思うと、わりと想像する仕事はソフトウェアのオペレーションだったり、データ制作業務である。もちろん企画や監督がメインの人たちもいるけれど、職種全体のイメージとしてはせっせと撮影したり、編集したり、モデリングしたり、キーフレームを打ったりして、データとしての納品物を形作っていくイメージが強い。個人的にデジタルの大工・職人だと思っている節もある。

もちろん大抵の仕事はどちらか一方ではなく、あくまで比重が異なるという話なのだけど、その比重に職種のイメージを引っ張られるところがある。ひどく乱暴な言い方をすると、例えば同じ撮影でも映像カメラマンよりもスチールカメラマンの方が… あるいは同じCGでも3Dよりも2Dの方が… 世間一般から「作業」よりも「クリエイティブ」を求められる傾向があるように思う。(※本当に乱暴な言い方をしています)

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上を半端にかけ合わせた「映像デザイナー」と名乗っている自分は、「考えること」と「作業すること」の割合が半々くらいの仕事を頂くことが多い。でもどこかで、「作業」の側によって対価を正当化していた節があったのだなと思う。特に見積もりを作るとき、世間一般に倣って◯人日的な工数として作業費を算出するけれど、これは自分がソフトウェアを操作する手間と時間を想像している。

ただ、技術や効率が上がるほど、同じ仕事であっても対価の比重が純粋な「作業」から「悩むこと」や「視座の提供」に傾いてくる。あるいは仕事のトンマナとして、ミニマルでシンプルなものが増えても結果として同じような状況になる。すると見積もりは「作業時間分頂きます!」の意味から少し離れて「私の知見から考えうるもの、あるいは悶々と悩み試行錯誤することには価値があるのです…」という主張になってしまい、何を今更と言われそうだが、これが結構苦しい。

極端な例として、仮に1案作ってそれで一応形になったけれど、不安になって2案目、3案目… も続けて作るとする。結果として1案目が良かったと確認するだけの時間を使ってしまったとき、それは質を担保するために必要な作業だったとも言えるけれど、個人的には最初からゴールに行けない未熟さを謝りたくなる。そのプロセスは個人的な勉強代であって、逆に対価を頂くということに後ろめたさがある。特に大工側のつもりで見積もりを立て参加している仕事だと、自分のよくわからない悩みで工期が延びていることに自分自身が耐えられなくなってしまう。

制作系アプリの広告で「手間が減ることでクリエイティブに集中できます!」みたいな常套句があるが、個人的には仕事の純粋な作業部分にこそ救われている。仮に想像できた瞬間には完成している、という未来が来たときにには、きっと自分の純粋なクリエイティブ成分のみに値付けせざるを得ないことになる。真っ先にAIに駆逐される人種の発想だとは思うけど、いや末恐ろしい。


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※補足しておくと、デジタル大工だって大いに創意工夫に溢れたクリエイティブな職業だと思っている。大工が木材を知り工具の扱いを熟知するように、デジタルデータの特性や各種ツールに精通している。プログラマーに対しても、要件定義されたお題に対して、その構造化や堅牢性に情熱を注ぐという意味で似たイメージを持っている。近年、分業制3DCGの職種がやたらと「〇〇アーティスト」と言い換えられるようになったのは、(本当に作家性の求められる役職もあるが) 単なるオペレーター的なイメージ払拭の意図もあるのかなと想像する。そしてFlash職人とは意味的にも心情的にも言い得て妙だったなと今になって思う。

※ 特に今の時代、最初から「作業量」のみで価値を正当化するのが難しい、写真やグラフィックを生業にする人は本当に尊敬の念に堪えない。のだけど、「作業楽そうですね」というニュアンスにならないようにそれを上手く伝えるのがいつも難しい。映像より純粋な手数が遥かに多いグラフィック仕事も無数にあるので、これも一概には言えないけれど...

2023-04-10

いつもありがとうございます

「顔を覚えられてしまったが最後、もうその店には行かなくなってしまう」という旨の投稿が、凄まじい数の同意を集めているのを見るたびに少し胸が痛む。誰でもない自分、としての居場所にこそ価値があったのに、その限りではくなってしまうのだろう。身近な人にもそういう人は多いし、自分自身も多分に人見知りだし、その気持ちは分からなくはない。

一方で、(主に海外のショート系動画で) 最近のカフェ店員特有の、客に対して明らかに無機質・無関心な、鼻につく声での接客を誇張して皮肉っているような投稿が、凄まじい議論を呼んでいるのもよく目にする。全く血の通っていない店員の態度に「昔はこうではなかった」と嘆く人もいれば、「仕事で必要以上の愛想を求められるのもおかしい」という人も一定数いた。

個人的には、客側の「店員に一切覚えられたくない」というささやかな拒絶的態度の行き着く先が、店員側の「客を一切人として扱わない」という無機質な世界ではないかと思うのだ。

もし客側の求めることが完全な匿名性であるとすれば、たとえ店員にとっては常連として見知った「知人」であったとしても「他人」として振る舞うことが求められる。でも「他人のフリをする」という行為は、ある意味で必要以上に愛想よくするのと同等か、それ以上の負担を強いてしまう気がしてならない。そこで店員が自らの心を守ろうとするならば、もう客を人としては接さずに、機械としての態度に振り切ってしまうのは自然な防衛反応と言える。

個人的に心配なのは、冒頭のような投稿が賛同を集めているのを見た店員側が「(良かれと思って伝えていたが) 気にされる方も多いので注意しなければ。。」と更に萎縮してしまうことだ。ただでさえ「客」を過剰に気遣う今の日本で、そんなズケズケと踏み込んでくる店員はそもそも滅多にいない。やたらと馴れ馴れしくもしてこない。その上で「いつもありがとうございます」の「いつも」すらを外せというのは、本当に店員の機械化の最後の一押しを、自らの手で引き起こしている気がしてしまう。店員が客に日頃の謝意すら伝えることすらできない世の中の、なんと息苦しいことか。

特に都会では普段から相手の心を否定しておいて、いざ旅先や移住先では人々の暖かさを求めるような態度を見ると辟易してしまう。どうか一度我が身を省みてほしい。

自分も愛想は悪いし、会話には全然上手く乗れないし、決して店員にとって心地良い客だとは思わないが、それでも業務を超えて示して頂く好意については極力前向きな態度でありたい。 特に自分が日頃から世話になっている店であれば、店側にとって心地良い状態にほんの僅かでも寄せたって良いのではないか。店員が常日頃こちらの距離感を推し量ってくれるように、こちらから推し量る姿勢もあって然るべきではないか。

2023-02-14

部活を頑張る子

昔から「部活を頑張る子は勉強も頑張る」とよく言われる。部活で忙しいはずのあの子に限って成績も優秀で、勉強にも手を抜かず頑張っている、というやつだ。それと比べて、何もせず暇を持て余しているのにお前ときたら… とこちらに飛び火する所までもがセットで思い出されるが、当時の彼らに抱いたのと似たような感情が、今再び、周りの育児世代を眺めていると蘇ってくる。

自分は年々歪みを増す自身のハンドリングにすら手を焼く一方だというのに、育児や家庭行事と並行して尚、文化的・社会的に目覚ましい活躍を見せる彼らは一体どう日々をやりくりしているのか。どんな道理で時間や気力を捻出しているのか。もう全く、皆目、見当がつかない。尊敬しているのはもちろん、あまりに想像が及ばなさすぎて、感覚としては摩訶不思議と表す方が近い。

でも自分自身でも、(ごく一時的に) 似たような不思議を経験した覚えがある。出張で忙しく、移動の合間を縫って仕事を進めた日の方が、何の予定もなく一日フルで作業に使える日よりも累計して進捗があったりするのだ。その実態に気付くと後者の自分は落ち込むわけだけれど、ふと冒頭の定説を思い出して、これはむしろ自然の道理で、仕方なのないことなのでは…?という屁理屈に逃げてしまう。

例えば忙しいとまとまった時間が取れないので、隙間時間でも成果が出るようにタスクを細分化したり、短い時間単位で集中せざるを得なくなる。結果としてポモドーロ・テクニックなんかで強制するようなタイムマネジメントが、自然となされているのではないか、という仮説。(それ以前に「時間がない」という現実から生まれる心理的な緊張感そのものが、あらゆる余念や煩悩を押し殺し、時間の密度を上げているのでは… という気もするが) よほどの忙しさでない限り、変に時間を作るより、むしろ予定を作って忙しさを上げた方が全体の生産高が上がるという状況も、わりとあることだと思う。

きっとどこかに「健康を保ちつつ生産性がピークになる忙しさ」というポイントが存在するのだろうけど、それは基本的に負荷のかかった状態なわけで、果たして継続してそんな状態でいたいかというと疑問が残る。特に自分は余裕の無さに対するテンパりラインが低く、それが分かりやすく周囲への迷惑として波及してしまうので、適度にぼんやりとできるくらいが丁度良いのだろうという自覚もある。とはいえタイムライン等で皆の常人ならぬ頑張りに日々触れ続けていると、じわじわと自尊心がしょげていくのを感じるが、そもそも他人の生産性にあてられて一喜一憂するのが虚しい。もっと超然としたい。


2022-10-05

文脈で食べてる

最近のAIアートへの賛否を眺めていると、昔からよく論点になる「手描きだからすごいのか」や「作り手としてメイキングはどこまで見せるべきか」の話を連想してしまう。人が作品を評価するとき、その文脈や制作背景(コンテキスト) にどの程度影響を受けているのか、あるいはどの程度加味するべきなのかという話と、これも実は近いところにある気がする。

かつて自分は、作品は作品それのみで純粋に評価されるべきだと信じていた。結果が全てであり、「こう作られたからすごい」みたいなことは言い訳がましく格好悪いと。しかし一方で、好きな作品であるほど周辺知識を「掘る」習慣も当然のように身についていた。メイキングや作者の過去作品・歴史的背景などを踏まえることで初めて理解が深まり、それでこそ「きちんと鑑賞する」態度たりえるのだという認識も同時にあった。世間的に「そんな事も知らずに作品を語るなんて…」みたいに揶揄されるのも分野を問わず、よくあることだと思う。

ただ、好きな作品の背景について掘り調べ、さらに好きになっていく… というのは言い換えれば、自らコンテキスト摂取に奔走することで当初の評価を歪ませていくことでもある。「作品は結果のみで評価されるべき」と信じる一方で、矛盾した行為に勤しんでいたことに自覚的になったのは、恥ずかしながらわりと最近のことだった。

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数週間前、AIアートが絵のコンテストで優勝したという記事があり、受賞者に避難が集まっているのを見た。そこで興味深かったのは「作者は数万枚の出力をして、数週間の選別をした上で、レタッチ作業も行った」という情報が付与されることで「なんだ、そうだったのか」と一定の評価を回復していることだった。極端に言えば「頑張ったかどうか」というコンテキストのみで世間からの評価が反転している。評価にあたっての文脈と結果の主従が逆転しているようにすら感じられた。

mimicという (作家が自身の絵をアップすることで模倣絵を生成する) サービスが出たときにも避難が殺到していたが「開発者だって長年の努力で得たスキルで頑張って作ったのだから」という方向で理解を示そうという人が多かったのも印象的だった。やはり「頑張ったかどうか」は短絡的ではあるが、侮れない評価軸らしい。

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1クリックで生成できるAIアートと対峙すると、作品の評価にあたってコンテキストをどう捉えているか、を露骨に問われる気持ちになる。表面的には人の努力の結晶と変わらない成果物でありながら、実際には数秒の思いつきとプロンプト入力以上の制作背景が存在しないものを、果たして自分はどう評価するのか。もし自らの評価のモノサシを正しく認識できていないと、何故か今まで評価してきたはずのものができない… という自己矛盾を抱えてしまうことになる。結果として「すごいけど何か嫌だ」とか「まだ細部が未熟だから人間の方がすごい」という煮えきらない認知的不協和の解消が、反応として表出してしまう。この感情的な折り合いの悪さが、AIアートへの拒絶反応を引き起こす一因にもなっているように思える。

例えば同じAIアートであっても、「独自のモデルを育てるために学習データを10年かけて手作業で作りました」のような経緯があれば、疑念を抱えることなく多くの人が感動を寄せるのだろう。同じくコンピューターを用いて生成するジェネラティブアートも、たとえコード自体が理解されなかったとしても、コーディングしている人間の努力はそこにあるという理解から、評価されやすい側面がある気がする。

もちろん広告全般や商業デザインなど、初見で伝わらないと意味をなさない制作物において、メイキングを見せびらかすことで努力を正当化するのは間違っている。でもアート作品においては、作家がその過程や苦労を自ら開示することを過度に避難する必要もないだろう。鑑賞者に対する向き合い方としては、ある意味、誠実で優しい態度とすら言えると思う。

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自分にしたって、思えばほぼ文脈で食べているようなものではないか… と思うことがある。プロとしての腕一本でやれていると思いたいところだが、もし純粋な映像の技量で上から並べて上から順に発注する仕組みがあったのなら、三日で廃業待ったなしである。それでも仕事として繋がっているのは、(想像の域は出ないが) これまでの関係性や、仕事への向き合い方、趣味嗜好、スケジュール感覚など、その周辺部分を含めた評価を少なからず感じる。これは機械化とは相容れない、やりがいを覚える所でもあり、本当にありがたいことだと思っている。(こと人間性やコミュニケーションには大いに問題があるので、むしろ純粋な技量側で埋め合わせたい気持ちではいるけど、中々叶わない) これは一方で、映像のスキルと同等かそれ以上に、人として成長しないといつか本当に食いっぱぐれるだろうな、という緊張感にも繋がっている。

結局人間なので、人が楽して作ったものを素直に評価できないのも、背後に人の努力や営みを求めてしまうのも、ごく自然なことではないだろうか。AIアートをはじめ「頑張っていない」成果物を評価できないという自分に対して、個人的には素直でありたいと思う。


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※これはAIアートをきっかけに感じた自身のモヤりを回想・咀嚼したもので、AIアート全体の問題を俯瞰したわけではない。普通に多面的すぎて難しい問題だと感じる。

※文脈による評価を肯定する一方で、主に仕事の場で、評価が文脈や言葉の側に偏ってしまうことで引き起こされる悲劇もまたあると感じるが、また別の機会に分けたい。

2022-09-17

プロシージャルの枠

作画系アニメーターの仕事を見ていると、まるで動かす前から「各フレームの正解の絵」が概ね見えているように思えて、これにはどうやっても敵わないなと思う。自分のように、まずは大枠の仕組みを作って動かしてみて、チマチマとパラメータを調整していてはまず到達できない次元の動き、心地良さだと感じる。

では逆にチマチマとパラメータ調整を繰り返すことで得られる動きの妙みたいなものもあるのだろうかと前向きに考えてみるが、あったとしても何となくヌメっとした質感で、あまり心地の良い類ではない気がする。プロシージャルな仕組みでの調整は平滑化の方向に進みやすく、イージングカーブをキツくする程度の調整はあれど、ダイナミックな構造変化には中々振りづらい。勿論、できるだけ構造自体も変化しうる構造作りを心がけるけど、必ずどこかで一定のフレームは生まれてしまう。

トライ&エラーのハードルを下げて、試行錯誤の自由を得られることがプロシージャルの良さであるはずが、よほど意思を持って踏み外さない限りは現状ベースの調整から抜け出せなくなってしまう。目の前の結果を、フラットに1枚の画像として見ればさっと試せたはずのアイデアが、その骨格や成り立ちを意識するせいで遠のいてしまうことは多い。これはむしろ不自由な状況と言える。

最近この思考の枠に囚われまいとやや過敏気味になっている。結局のところ、どんな仕組みで、どんな苦労を経て生まれたのか、一切考えることなく純粋に結果を見て躊躇なく壊すということに尽きると思うが、度を越すと仕事が一向に進まなくなる。

たとえプロシージャルであっても、もう少し「正解」が頭で思い描けるようになることで取りうるアプローチを変えられるだろうとは思う。さらにはプロシージャルであるからこそ、まるで思い浮かばなかった思考の外が生み出される可能性もあるわけで、そんな余地をぼんやりと孕んだような仕組みが組めるようになりたい。

(字余りになったツイート下書き複数個をまとめた)