tag:blogger.com,1999:blog-79201399660028017302024-02-23T11:52:42.917+09:00guBlogguponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.comBlogger62125tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-50616142890833049812024-01-30T21:18:00.018+09:002024-01-30T23:48:39.902+09:00mosktch<p>2019年からズルズルと続けていた<a href="https://www.instagram.com/mosktch/" target="_blank">motion sketch</a>がようやく100に届いた。100個作ると数字を決めてから始めたので、他のテーマと比べると幾分か長引いてしまった。スプライン使ったあれこれは今後も続けるとして、このシリーズとしては一旦終えるつもりだけれど、mosktchとは何だったのかを一度振り返っておきたい。</p><p><br /></p><h4 style="text-align: left;">きっかけ</h4><p>2015年頃、仕事で提案した手法の1つが原型となった。X-Particlesの軌跡をスプライン化して、Sketch&Toonでレンダリングしたのが最初だったと思う。線のみにS&Tを用いた見た目が新鮮で、かつ想像以上に醸し出される手描き感に感動したのを覚えている。</p><p>一方で案件自体は途中からぱったりと音沙汰がなくなった上、気付けば別の布陣で完成・公開されており、その悔しさと手法への感動が入り混じって忘れられず、4年後の2019年に掘り起こすに至る。</p><p><br /></p><h4 style="text-align: left;">量と質</h4><p>一番最初は<a href="https://to-ti.in/product/tokiwa" target="_blank">トキワブルーに憧れて</a>、あとは最近出会った<a href="https://maywadenki.stores.jp/items/5c122afac49cf31877a60f6d" target="_blank">オタクギョタク</a>、岡崎さんの<a href="https://youtu.be/thMvN0DCsNc?si=qxIBTreZCmjrPmRk" target="_blank">Matches</a>, Beeple氏の<a href="https://www.beeple-crap.com/everydays" target="_blank">Everydays</a>などなど… 日々様々な形で量産もしくは継続する方々の背中を見るにつけ、漠然と一度まとまった量を作ってみる体験がしたかった。でも自分じゃ一晩で100は無理だし、1週間でも厳しいので3ヶ月位かな。。と思っていたが結局3年以上かかってしまった。一応ミニマムな量的達成はあったものの、短期集中でもなければコツコツ継続できてもいない状況で体験としての意義はあやしい。そして200, 300... を超えても淡々とその先へ進める人たちとの間の圧倒的距離を知る。</p><p><br /></p><p>---</p><h4>テーマ</h4><p>基本的に上で書いた以上の動機はなく、コンセプトなども皆無であったけど、続けているうちにいくつか意識するようになったテーマを3つ挙げてみる。</p><p><br /></p><h4 style="text-align: left;">Ⅰ: 不完全さ</h4><p>mosktchのアナログ感は全てノイズの組み合わせで醸成されており、つまりはデジタル表現の賜物なっている。筆圧のブレ、鉛筆の傾き、筆跡の歪み、撮影する紙やカメラの位置ズレ、黒鉛や紙のテクスチャ、さらに線のはみ出しや塗り残し、円を描くときの開始角度など、考えうる全てのレイヤーにそれっぽいノイズやランダムさを加えることでパッと見の「アナログ感」を作ろうと試みている。(気を配れば本来入り込まないような要因まで入れ込んで、ややアナログ感を過剰演出している節もある)</p><p><a href="https://substance3d.adobe.com/assets/allassets?assetType=substanceMaterial" target="_blank">Substance Designerなどで作られるマテリアル</a>はノイズ芸の最たるものだ。要素の全レイヤーに対して細かくチューニングを重ねた結果、見慣れたCG的ノイズの合算だったものが突然リアルにしか見えない瞬間が訪れる。それはたとえその構成要素を知っていても抗えない感覚で、その越境にずっと興味があるというか、計算機に対するロマンを見ている気がする。</p><p>過程で作ったスプライン操作のあれこれも、結局ほとんどは人間や自然物の不完全さを再現するためのもので、まとめ動画のタイトルを「Imperfections」にしようかと思ったくらい、全体で共通のテーマになっている。(後付けでかっこつけるのも小癪なのでやめた)</p><p><br /></p><h4 style="text-align: left;">Ⅱ: 線</h4><p>ほぼ認識上の概念である線という存在が、折れたり膨らんだり分裂したりと、実体や物性を持つだけで面白いな、という動機だけでいくつかは作った。でもそう短絡的に済む話ではない気がするし、全然掘り足りないので継続してやっていきたい。線が伸びると気持ちいい、とかは自分のモーション原体験な気がするけど、それもまだ上手く説明できない。</p><p><br /></p><h4 style="text-align: left;">Ⅲ: 小手先頼り</h4><p>自分の知識や技術力が上がる一方で、グラフィックや映像の表現力は年々落ちている実感が開始の時点で既にあったので、このシリーズには「小手先でたくさん作る」という目論見もあった。手法そのものは最初の数作でほぼ完成していたし、あとは形や動きを試行錯誤し続けることに集中できると踏んでいたのだけど、この点は見事に失敗に終わった。</p><p>たまに意識的に表現のみに振ろうとするも、基本的な動機がどうしても仕組みづくりに偏ってしまう。いざまとまった手法ができても使い回すことに謎の罪悪感が芽生えてしまい、ひどいときには毎回小さな新規プラグインを作っては疲弊し、雑に最後ちょろっと使うような状況に陥ってしまった。</p><p><br /></p><p>---</p><p>皮肉にも、技術的には想像もしていなかったブレイクスルーが何度かあったし、小さなパズルを解き続けたことで仕組みづくりは随分早くなった気がする。本気で表現と向き合うにはもっと極端な割り切りが必要そうだけれど、いい加減自分の変えがたい性質と折り合いをつけていくべきとも思う。</p><p>そしてこれだけ手描き風ルックを続けたが、どちらかというと自分は素直にデジタルの特性 (完璧な直線や曲線、ムラのない塗り、完全に均一なコマ補間など) を活かした表現が好きで、途中からこのデジタルでアナログを模し続ける不毛な行為に何とも言えない<a href="https://x.com/dominikus/status/1598370354531282945?s=20" target="_blank">もどかしさ</a>を覚えるようになった。結局どこまで行っても手描きには敵わないし、なぜ滑らかに破綻なく作ったスプラインの挙動を8fpsに落とした上でガタガタとノイズまで加えなければならないのか... と憤りすら覚えることもあった。自業自得というほかない。</p><p>今のところ自己紹介がてらにさっと見せられるinstagramアカウントがこれしかなく、初対面で「(あっ) 謎のアナログ風アニメーション作家(もどき)ね」という分類の避けられない状況を今年は何とかしたい。CGをがんばります。</p><p><br /></p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-32935677750204386862023-09-01T14:04:00.004+09:002024-01-01T14:59:51.928+09:00引越<p>郊外から都内へ戻ることになった。</p><p>20代の頃は都内を10回以上引越す引越狂いだったけれど、30代に入ったここ数年、少し郊外へと足を伸ばしてみた。これまで一度も賃貸契約の更新を迎えないまま点々としていたのに、今回は二度目の契約更新も差し迫るほどになっていて、流石にちょっと引き剥がすのに苦労する程度には根が張られた感覚があった。</p><p>移り住んだ当初は、さらに都心から離れるための練習台にしようとしていた節があったものの、結局戻ることになったのでその観点では失敗といえる。けれどこんな自分でも、いざとなればスーパーへ出向き食材を買い調理をするに至るのだと分かり、憧れていた車生活はやっぱり最高に楽しいということも分かったので、収穫がゼロというわけでもない。都心から離れても、まあ何とかなるのだと具体的な想像が進んだ。</p><p>ちょうど世間がコロナ禍になったのも移住と重なっていたので、立地の利便性よりも居住空間に家賃を全振りしていたのもラッキーだった。世間がオンラインベースになり、仕事もほぼ在宅だったけれど、適度な部屋数と平米数のお陰で家で息が詰まるということがあまりなかった。たとえ機能的に困らずとも、息をするための空間というのは在宅時間に比例して必要らしい。</p><p>都内に戻るとやっぱり何もかも便利だなと思うし、ごく普通の駅前の人や店の密度につい胸が踊ってしまう。その辺の通りや街角単位のスケールで、当然のように文化や歴史が積み重なっているのが感じられ、逆にこの密度が普通になると日本の大半の場所が空虚に思えてしまいそうだけれど、それはそれでどうなのか。</p><p>都内へ戻ると同時にシェアオフィスにも入ることになり、ひたすら家に籠もっていたここ数年を思うと、単なる生活圏の移動以上の転機になりそうだと感じる。外に出て人と会い、もう少し身も心も外へ開いていきたい。コロナ禍開けの世間にもそんな空気を感じる。</p><p><br /></p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-26176997200047000742023-08-06T22:07:00.078+09:002023-08-12T10:42:07.822+09:00作業の比重<p>道筋さえ見えていれば純粋な作業としては1日とかからないはずの仕事が、色々悩んでしまって1週間かけても終わらないと、申し訳無さと不甲斐なさで気持ちが日に日に沈んでいく。そういう場合、大抵それは単なる作業ではなく、道筋を見つける事自体が仕事であると認識を改める必要がある。でも自分の受け取る対価が、作業自体よりも悩むことの方に比重があると認めることが、かなり難しいことだと今更になって思う。</p>--<div><br /><p>「デザイナー」という職業を思うと、想像する仕事は作業というより思考そのものである。受け取ったお題を整理したり膨らませたり、ビジュアルデザインであればモチーフや造形を検討したり。もっと広義のそれであれば新たな軸や視点を探したり。たとえ最終的な納品物がロゴであったとしても、その人の知見を踏まえた思考そのものに対価を払うイメージがある。名詞的に使われる「クリエイティブ」とも言い換えられる気がする。</p><p>一方で「映像制作業」、特に「CG制作業」を思うと、わりと想像する仕事はソフトウェアのオペレーションだったり、データ制作業務である。もちろん企画や監督がメインの人たちもいるしトータルでこなせる超人もいるけれど、職種全体のイメージとしてはせっせと撮影したり、編集したり、モデリングしたり、キーフレームを打ったりして、データとしての納品物を形作っていくイメージが強い。個人的にデジタルの大工・職人だと思っている節もある。</p><p>もちろん大抵の仕事はどちらか一方ではなく、あくまで比重が異なるという話なのだけど、その比重に職種のイメージを引っ張られるところがある。ひどく乱暴な言い方をすると、例えば同じ撮影でも映像カメラマンよりもスチールカメラマンの方が… あるいは同じCGでも3Dよりも2Dの方が… 世間一般から「作業」よりも「クリエイティブ」を求められる傾向があるように思う。(※本当に乱暴な言い方をしています、職種として作業量的に分業が前提となった結果、自分を出すことをあまり求められないという側面もあると思う)</p><p>--</p><p>さて「映像デザイナー」と名乗っている自分は、「考えること」と「作業すること」の割合が半々くらいの仕事を頂くことが多い。でもどこかで、「作業」の側によって対価を正当化していた節があったのだなと思う。特に見積もりを作るとき、世間一般に倣って作業量を◯人日的な工数として算出するけれど、これは主に自分がソフトウェアを操作する手間と時間を想像してしまう。</p><p>ただ、技術や効率が上がるほど、同じ仕事であっても対価の比重が純粋な「作業」から「悩むこと」や「視座の提供」に傾いてくる。あるいは仕事のトンマナとして、ミニマルでシンプルなものが増えても結果として同じことになる。すると「作業分頂きます」に代わって「私の知見から考えうるもの、あるいは悶々と悩み試行錯誤することには価値があります」と胸を張って見積もりに示す必要があり、何を今更と言われそうだが、これが結構苦しい。</p><p>極端な例として、仮に1案作ってそれで一応形になっているとして、でも不安になって2案目、3案目… を作るとする。結果としてやっぱり1案目が良かったと確認するだけの作業になってしまったとき、それは質を担保するために必要な作業だったとも言えるけれど、個人的には最初から確信を持てない自分の未熟さを謝りたくなる。個人的な勉強代であって、逆に対価を頂くということに後ろめたさがある。また、特に大工側のつもりで見積もりを立て参加している仕事だと、自分のよくわからない悩みで工期が延びていることに自分自身が耐えられなくなってしまう。</p><p>アプリが高機能化したときの広告で「手間が減ることでクリエイティブに集中できます!」みたいな常套句があるが、個人的には仕事の純粋な作業部分にこそ救われている。仮に想像できた瞬間には完成している、という未来が来たときにには、きっと自分の純粋なクリエイティブ成分のみに値付けせざるを得ないことになる。真っ先にAIに駆逐される人種の発想だとは思うけど、いや末恐ろしい。</p><p><br /></p><p><br /></p><p>※フォロー(?) のために言っておくと、デジタル大工にだって創意工夫があり、作り上げるデータにプライドもあり、十分クリエイティブな職業だと思っている。大工が木材を知り工具の扱いを熟知するように、デジタルデータの特性や各種ツールに精通している。コーディングするエンジニアにも、要件定義されたお題に対して、その構造化や堅牢性に情熱を注ぐという意味で似たイメージを持っている。近年、分業制3DCGの職種がやたらと「〇〇アーティスト」と言い換えられるようになったのは、(本当に作家性の求められる役職もあるが) 単なるオペレーター的なイメージ払拭の意図もあるのかなと想像する。そしてFlash職人とは意味的にも心情的にも言い得て妙だったなと今になって思う。</p><p>※ 特に今の時代、最初から「作業量」のみで価値を正当化するのが難しい、写真やグラフィックを生業にする人は本当に尊敬の念に堪えない。のだけど、「作業楽そうですね」というニュアンスにならないようにそれを上手く伝えるのがいつも難しい。映像より純粋な作業量が遥かに多い写真やグラフィック仕事も無数にあるので、これも一概には言えないけれど...</p></div>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-24708486597122957262023-04-10T10:56:00.047+09:002023-07-07T12:48:19.274+09:00いつもありがとうございます<p>「顔を覚えられてしまったが最後、もうその店には行かなくなってしまう」という旨の投稿が、凄まじい数の同意を集めているのを見るたびに少し胸が痛む。誰でもない自分、としての居場所にこそ価値があったのに、その限りではくなってしまうのだろう。身近な人にもそういう人は多いし、自分自身も多分に人見知りだし、その気持ちは分からなくはない。</p><p>一方で、(主に海外のショート系動画で) 最近のカフェ店員特有の、客に対して明らかに無機質・無関心な、鼻につく声での接客を誇張して皮肉っているような投稿が、凄まじい議論を呼んでいるのもよく目にする。全く血の通っていない店員の態度に「昔はこうではなかった」と嘆く人もいれば、「仕事で必要以上の愛想を求められるのもおかしい」という人も一定数いた。</p><p>個人的には、客側の「店員に一切覚えられたくない」というささやかな拒絶的態度の行き着く先が、店員側の「客を一切人として扱わない」という無機質な世界ではないかと思うのだ。</p><p>もし客側の求めることが完全な匿名性であるとすれば、たとえ店員にとっては常連として見知った「知人」であったとしても「他人」として振る舞うことが求められる。でも「他人のフリをする」という行為は、ある意味で必要以上に愛想よくするのと同等か、それ以上の負担を強いてしまう気がしてならない。そこで店員が自らの心を守ろうとするならば、もう客を人としては接さずに、機械としての態度に振り切ってしまうのは自然な防衛反応と言える。</p><p>個人的に心配なのは、冒頭のような投稿が賛同を集めているのを見た店員側が「(良かれと思って伝えていたが) 気にされる方も多いので注意しなければ。。」と更に萎縮してしまうことだ。ただでさえ「客」を過剰に気遣う今の日本で、そんなズケズケと踏み込んでくる店員はそもそも滅多にいない。やたらと馴れ馴れしくもしてこない。その上で「いつもありがとうございます」の「いつも」すらを外せというのは、本当に店員の機械化の最後の一押しを、自らの手で引き起こしている気がしてしまう。店員が客に日頃の謝意すら伝えることすらできない世の中の、なんと息苦しいことか。</p><p>特に都会では普段から相手の心を否定しておいて、いざ旅先や移住先では人々の暖かさを求めるような態度を見ると辟易してしまう。どうか一度我が身を省みてほしい。</p><p>自分も愛想は悪いし、会話には全然上手く乗れないし、決して店員にとって心地良い客だとは思わないが、それでも業務を超えて示して頂く好意については極力前向きな態度でありたい。 特に自分が日頃から世話になっている店であれば、店側にとって心地良い状態にほんの僅かでも寄せたって良いのではないか。店員が常日頃こちらの距離感を推し量ってくれるように、こちらから推し量る姿勢もあって然るべきではないか。</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-26392098300598172812023-02-14T18:38:00.007+09:002023-03-08T18:54:52.317+09:00部活を頑張る子<p>昔から「部活を頑張る子は勉強も頑張る」とよく言われる。部活で忙しいはずのあの子に限って成績も優秀で、勉強にも手を抜かず頑張っている、というやつだ。それと比べて、何もせず暇を持て余しているのにお前ときたら… とこちらに飛び火する所までもがセットで思い出されるが、当時の彼らに抱いたのと似たような感情が、今再び、周りの育児世代を眺めていると蘇ってくる。</p><p>自分は年々歪みを増す自身のハンドリングにすら手を焼く一方だというのに、育児や家庭行事と並行して尚、文化的・社会的に目覚ましい活躍を見せる彼らは一体どう日々をやりくりしているのか。どんな道理で時間や気力を捻出しているのか。もう全く、皆目、見当がつかない。尊敬しているのはもちろん、あまりに想像が及ばなさすぎて、感覚としては摩訶不思議と表す方が近い。</p><p>でも自分自身でも、(ごく一時的に) 似たような不思議を経験した覚えがある。出張で忙しく、移動の合間を縫って仕事を進めた日の方が、何の予定もなく一日フルで作業に使える日よりも累計して進捗があったりするのだ。その実態に気付くと後者の自分は落ち込むわけだけれど、ふと冒頭の定説を思い出して、これはむしろ自然の道理で、仕方なのないことなのでは…?という屁理屈に逃げてしまう。</p><p>例えば忙しいとまとまった時間が取れないので、隙間時間でも成果が出るようにタスクを細分化したり、短い時間単位で集中せざるを得なくなる。結果としてポモドーロ・テクニックなんかで強制するようなタイムマネジメントが、自然となされているのではないか、という仮説。(それ以前に「時間がない」という現実から生まれる心理的な緊張感そのものが、あらゆる余念や煩悩を押し殺し、時間の密度を上げているのでは… という気もするが) よほどの忙しさでない限り、変に時間を作るより、むしろ予定を作って忙しさを上げた方が全体の生産高が上がるという状況も、わりとあることだと思う。</p><p>きっとどこかに「健康を保ちつつ生産性がピークになる忙しさ」というポイントが存在するのだろうけど、それは基本的に負荷のかかった状態なわけで、果たして継続してそんな状態でいたいかというと疑問が残る。特に自分は余裕の無さに対するテンパりラインが低く、それが分かりやすく周囲への迷惑として波及してしまうので、適度にぼんやりとできるくらいが丁度良いのだろうという自覚もある。とはいえタイムライン等で皆の常人ならぬ頑張りに日々触れ続けていると、じわじわと自尊心がしょげていくのを感じるが、そもそも他人の生産性にあてられて一喜一憂するのが虚しい。もっと超然としたい。</p><p><br /></p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-37229220339563465392022-10-05T12:08:00.141+09:002023-07-06T15:25:29.740+09:00文脈で食べてる<p>最近のAIアートへの賛否を眺めていると、昔からよく論点になる「手描きだからすごいのか」や「作り手としてメイキングはどこまで見せるべきか」の話を連想してしまう。人が作品を評価するとき、その文脈や制作背景(コンテキスト) にどの程度影響を受けているのか、あるいはどの程度加味するべきなのかという話と、これも実は近いところにある気がする。</p><p>かつて自分は、作品は作品それのみで純粋に評価されるべきだと信じていた。結果が全てであり、「こう作られたからすごい」みたいなことは言い訳がましく格好悪いと。しかし一方で、好きな作品であるほど周辺知識を「掘る」習慣も当然のように身についていた。メイキングや作者の過去作品・歴史的背景などを踏まえることで初めて理解が深まり、それでこそ「きちんと鑑賞する」態度たりえるのだという認識も同時にあった。世間的に「そんな事も知らずに作品を語るなんて…」みたいに揶揄されるのも分野を問わず、よくあることだと思う。</p><p>ただ、好きな作品の背景について掘り調べ、さらに好きになっていく… というのは言い換えれば、自らコンテキスト摂取に奔走することで当初の評価を歪ませていくことでもある。「作品は結果のみで評価されるべき」と信じる一方で、矛盾した行為に勤しんでいたことに自覚的になったのは、恥ずかしながらわりと最近のことだった。</p><p>--</p><p>数週間前、AIアートが絵のコンテストで優勝したという記事があり、受賞者に避難が集まっているのを見た。そこで興味深かったのは「作者は数万枚の出力をして、数週間の選別をした上で、レタッチ作業も行った」という情報が付与されることで「なんだ、そうだったのか」と一定の評価を回復していることだった。極端に言えば「頑張ったかどうか」というコンテキストのみで世間からの評価が反転している。評価にあたっての文脈と結果の主従が逆転しているようにすら感じられた。</p><p>mimicという (作家が自身の絵をアップすることで模倣絵を生成する) サービスが出たときにも避難が殺到していたが「開発者だって長年の努力で得たスキルで頑張って作ったのだから」という方向で理解を示そうという人が多かったのも印象的だった。やはり「頑張ったかどうか」は短絡的ではあるが、侮れない評価軸らしい。</p><p>--</p><p>1クリックで生成できるAIアートと対峙すると、作品の評価にあたってコンテキストをどう捉えているか、を露骨に問われる気持ちになる。表面的には人の努力の結晶と変わらない成果物でありながら、実際には数秒の思いつきとプロンプト入力以上の制作背景が存在しないものを、果たして自分はどう評価するのか。もし自らの評価のモノサシを正しく認識できていないと、何故か今まで評価してきたはずのものができない… という自己矛盾を抱えてしまうことになる。結果として「すごいけど何か嫌だ」とか「まだ細部が未熟だから人間の方がすごい」という煮えきらない認知的不協和の解消が、反応として表出してしまう。この感情的な折り合いの悪さが、AIアートへの拒絶反応を引き起こす一因にもなっているように思える。</p><p>例えば同じAIアートであっても、「独自のモデルを育てるために学習データを10年かけて手作業で作りました」のような経緯があれば、疑念を抱えることなく多くの人が感動を寄せるのだろう。同じくコンピューターを用いて生成するジェネラティブアートも、たとえコード自体が理解されなかったとしても、コーディングしている人間の努力はそこにあるという理解から、評価されやすい側面がある気がする。</p><p>もちろん広告全般や商業デザインなど、初見で伝わらないと意味をなさない制作物において、メイキングを見せびらかすことで努力を正当化するのは間違っている。でもアート作品においては、作家がその過程や苦労を自ら開示することを過度に避難する必要もないだろう。鑑賞者に対する向き合い方としては、ある意味、誠実で優しい態度とすら言えると思う。</p><p>--</p><p>自分にしたって、思えばほぼ文脈で食べているようなものではないか… と思うことがある。プロとしての腕一本でやれていると思いたいところだが、もし純粋な映像の技量で上から並べて上から順に発注する仕組みがあったのなら、三日で廃業待ったなしである。それでも仕事として繋がっているのは、(想像の域は出ないが) これまでの関係性や、仕事への向き合い方、趣味嗜好、スケジュール感覚など、その周辺部分を含めた評価を少なからず感じる。これは機械化とは相容れない、やりがいを覚える所でもあり、本当にありがたいことだと思っている。(こと人間性やコミュニケーションには大いに問題があるので、むしろ純粋な技量側で埋め合わせたい気持ちではいるけど、中々叶わない) これは一方で、映像のスキルと同等かそれ以上に、人として成長しないといつか本当に食いっぱぐれるだろうな、という緊張感にも繋がっている。</p><p>結局人間なので、人が楽して作ったものを素直に評価できないのも、背後に人の努力や営みを求めてしまうのも、ごく自然なことではないだろうか。AIアートをはじめ「頑張っていない」成果物を評価できないという自分に対して、個人的には素直でありたいと思う。</p><p><br /></p><p>--</p><p>※これはAIアートをきっかけに感じた自身のモヤりを回想・咀嚼したもので、AIアート全体の問題を俯瞰したわけではない。普通に多面的すぎて難しい問題だと感じる。</p><p>※文脈による評価を肯定する一方で、主に仕事の場で、評価が文脈や言葉の側に偏ってしまうことで引き起こされる悲劇もまたあると感じるが、また別の機会に分けたい。</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-21927751560821343232022-09-17T19:59:00.098+09:002022-09-26T15:25:53.053+09:00プロシージャルの枠<p>作画系アニメーターの仕事を見ていると、まるで動かす前から「各フレームの正解の絵」が概ね見えているように思えて、これにはどうやっても敵わないなと思う。自分のように、まずは大枠の仕組みを作って動かしてみて、チマチマとパラメータを調整していてはまず到達できない次元の動き、心地良さだと感じる。</p><p>では逆にチマチマとパラメータ調整を繰り返すことで得られる動きの妙みたいなものもあるのだろうかと前向きに考えてみるが、あったとしても何となくヌメっとした質感で、あまり心地の良い類ではない気がする。プロシージャルな仕組みでの調整は平滑化の方向に進みやすく、イージングカーブをキツくする程度の調整はあれど、ダイナミックな構造変化には中々振りづらい。勿論、できるだけ構造自体も変化しうる構造作りを心がけるけど、必ずどこかで一定のフレームは生まれてしまう。</p><p>トライ&エラーのハードルを下げて、試行錯誤の自由を得られることがプロシージャルの良さであるはずが、よほど意思を持って踏み外さない限りは現状ベースの調整から抜け出せなくなってしまう。目の前の結果を、フラットに1枚の画像として見ればさっと試せたはずのアイデアが、その骨格や成り立ちを意識するせいで遠のいてしまうことは多い。これはむしろ不自由な状況と言える。</p><p>最近この思考の枠に囚われまいとやや過敏気味になっている。結局のところ、どんな仕組みで、どんな苦労を経て生まれたのか、一切考えることなく純粋に結果を見て躊躇なく壊すということに尽きると思うが、度を越すと仕事が一向に進まなくなる。</p><p>たとえプロシージャルであっても、もう少し「正解」が頭で思い描けるようになることで取りうるアプローチを変えられるだろうとは思う。さらにはプロシージャルであるからこそ、まるで思い浮かばなかった思考の外が生み出される可能性もあるわけで、そんな余地をぼんやりと孕んだような仕組みが組めるようになりたい。</p><p>(字余りになったツイート下書き複数個をまとめた)</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-42444247067892675442022-06-15T16:14:00.005+09:002022-08-04T12:32:24.903+09:00サブディビジョン・モデリング<p><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/サブディビジョンサーフェス" rel="nofollow" target="_blank">サブディビジョン・サーフェス</a>と呼ばれる、曲面を表現する仕組みがある。端的に説明するとカクカクしたポリゴンを滑らかに分割・補間する仕組みなのだが、その適用を前提としたモデリングをサブディビジョン・モデリングと呼んだりもする。柔らかいフォルムの生物からソリッドなプロダクト系まで、モデリングでは幅広く用いられる手法の一つだ。</p><p>これは通常のモデリングと比べて多少面倒な作法が要求されるのだが、近年はいくつかの理由から「ほぼ必須スキル」であった以前とは若干状況が変わってきたように思う。自分の想像する、主だった要因は以下のあたりだ。</p><p></p><ul><li>平均的なマシンパワーが上がり、後工程での細分化に頼らずとも最初から高いポリゴン数のままモデリングからフィニッシュまで行えるようになった。</li><li>ポリゴンを扱う側のアルゴリズムが改善され、多少煩雑なメッシュであってもそこに二次的な編集を施したり、滑らかな表示がエラーなく行えるようになった。</li><li>リメッシャーと呼ばれる、どんなメッシュでも「人間がサブディビジョン・モデリングしたかのようなメッシュ」へと自動で変換するような仕組みが生まれ、その完成度が恐ろしく上がってきた。</li><li>ボリュームモデリングの台頭により、本来SDSしか選択肢のなかった「複雑で有機的な曲面」をモデリングする際の選択肢が増えた。</li></ul><p>これらの状況が相まって、ジャンルによってはよほどの精度が求められない限りは不要なスキルになったとも言え、その必要性についての議論を自分の観測範囲でも度々目にする。</p><p>どうもセンシティブな話題なようで、普段穏便なレジェンドたちがこの話題になると急に語気を荒げた発言に出たりするので焦る。ただ、恐らくは長い時間と経験を費やして身につけたスキルや「業界的に常識・最低限」とされていた作法を新参者に無下に扱われることに加え、自動化の波が迫る状況に不安を抱くのは想像に難くない。</p><p>自分のモデリングスキルは全く大したことないけれど、それでも多少なりとも頑張って得たスキルの希少性が日々下がっていく状況に寂しさを覚える側の人間ではあると思う。一方で技術が進み、参入障壁が下がり、取りうるツールの選択肢が増えることは素直に喜ばしい状況でもある。(自分も頻繁にリメッシャーの世話になるので)</p><p>それは別として、負け惜しみのようにしか見えないと思うが、自分がSDSモデリングを愛してやまないポイントを下に並べてみる。自分は仕事でモデリング業務が発生することはほぼないので、そもそもが趣味嗜好的な視点になってしまうが、SDSモデリングは実用面を差し置いても、その作業自体がとても楽しいのだ。</p><ol><li>モデリング対象となる形に対して、大まかなシルエットからディテールへ、形を捉える目の粒度を少しずつ細かくして、段階的に形に反映していく必要がある。たとえ細部を整えている最中に、見えていなかった全体の起伏や傾斜を見つけたとしても基本的にはやり直しが効かず、そのステップまで戻る必要がある。そこに程よい緊張感が生まれる。</li><li>エッジの流れの根幹となる線を見つけられると、無理なくその先のポリゴンの分割が進む。メッシュ全体の形も説得力を帯びてくる。自分が何となく好きだった形の、骨格を掘り出していくような楽しさがある。作業効率的にも、エッジフローが上手く作れると適切なループ選択が効くので、同時に効率化も図ることができる。</li><li>一見後戻りの効かない、地道で破壊的に見える作業の中にも、非破壊的に進めるテクニックがいくつか存在する。例えば第一段階で作った外形のエッジをできる限り触らないようにエッジの追加を進めることで、あとから面取り具合を調整したり、取り除いて一段回戻ることもできる。機能としては用意されていないが、データ作りの工夫次第でその行き来ができる。</li><li>作法として、基本的に全てのポリゴンを四角形で構成することが良しとされる(各辺を二分割することで同じ四角形の集合となるため)。全体のエッジの流れを保ちながら、いかに三角形や五角形を作らないように線を繋ぎ替えるか、というのは脳にとって程よい負荷のようで、小さなパズルゲームを解き続けてるような心地よさがある。慣れてくると周囲のポリゴンの並びで、何となく問題となっているポリゴンをどう切れば良いのか、蓄積されたパターンから引き出せるようになる。そして全ての可能性を吟味した上で、あえてn角形を配するときの楽しさもまたひとしおである。(一回以上の細分化で四角形になることを見越す)</li><li>特に画像を敷いての作業では、Illustratorでのトレース作業で得られる楽しさと似ている。元の線をゆっくりなぞる気持ち良さや、最小限のアンカーポイントで形を捉えることができたときと同じ満足感がある。ただし曲線のハンドルにあたる概念はないため、点を折ったり左右を不均等にしたりといった調整操作のない分、よりストイックさが増す。面の分割のみをヒンティングしていくことで、ごくシンプルなアルゴリズムに複雑な形状を表現させるところに、その醍醐味がある。(weightを多用すれば別だが好きではない)</li><li>形を精緻に制御するためにはメッシュの均一性(各ポリゴンの過度な大小を作らない) も大切になってくるが、綺麗で均質な四角ポリゴンで構成されたモデルは、テクスチャをはじめとしたuv処理や、ダイナミックな変形、破壊等のシミュレーションにおいても大いに有利にはたらく。見た目の美しさや歪みの少なさが、データ的なそれに直結している。</li><li>出来上がった滑らかな曲面を、そこに表現されている以上に「無限に滑らかになる可能性をもった曲面」として眺めるのが最高に楽しい。</li></ol><p>個人的には実用面で全くその必要性がなくなったとしても、単なる楽しい営みとしてこれからも続けるだろうと思う。SDSモデリングはコンピューター上で行う作業の中でも特に楽しいもののひとつなので、イラレでのトレース作業などが好きな人には是非一度おすすめしたい。</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-80799308566980839622022-05-14T11:46:00.098+09:002022-08-25T17:51:47.072+09:00日記への信頼かなり不定期だけれど、もう10年ほど日記をつけている。ツールやアプリは乗り換えてきたものの、基本的にはデジタルな媒体に頼っていたのだが、最近ちょっとした経緯から、初めて手書きでA4ノートに書いてみることにした。まとまった文章を手で書くのは学生の時以来で、ノートに一文字ずつ手で書くという行為がこんなにも果てしない行為だったかと気が遠くなったりもしたが、それと同時に書くときの心構えにもある種の変化があるのに気付いた。それは「書く」行為による身体性からの影響もあるが、大部分は媒体への信頼の違いから来るものだと感じた。端的に言うと「紙にこんな情報を残すなんてとんでもない!」という不安が過るのだ。<div><div><br /></div><div>基本的に日記は読まれて恥ずかしいものだと思うし、少なくとも自分は人に読ませるために書いてはいない。でも出来事と思考の記録、それら一連の思い出としては機能してほしいので、数年後の自分 (もはや他人) が読み返して意味をなす程度には、文章としての体裁を保って書くことにしている。するとそれは同時に他人にとっても、ある程度の情報として機能してしまうことになる。</div><div><br /></div><div>紙媒体は脆いイメージもあるが捨てない限りはモノとして残るので、ローカルやクラウドに保存されたデジタルな日記と比べて、将来的にふとした事故で人目に付く可能性が圧倒的に高いように思う。最初こそ扱いに気をつけていても、あまり興味のなくなった頃に適当に他の書物と棚で一緒にしてしまったり、出先で書こうと思って持ち出した時に置き忘れたり、うっかり他人に読まれる状況はそれこそ無限に想像できる。そんな媒体に、自分の最もパーソナルな情報を書き連ねて束ねておくというのは、実は結構勇気が要ることなのではないか。</div><div><br /></div><div><div>一方でデジタルは、アプリやサービスの終了と同時に消滅してしまうリスクはあるが、他人に偶然読まれるような状況は(自分の死後を含めても)まず考えにくい。そう思うとかなり高い信頼を持って自分を開示していくことができる。そしてそれは、個人的に日記を書くという行為の大きな目的でもある「思考を一旦自分の外に出し切り、客観視する」という部分に対しても大切な意味をもつ。信頼のない相手に対して、思考を出し切ることはできない。</div></div><div><br /></div><div>別に誰に読ませるつもりでなくとも、文章としての体裁を保つ以上、ぼんやりと受け手を想定して書くことになるのは日記の面白い所だと思う。そして自分はその架空の受け手への信頼度が、書いているツールや媒体によって変わってくる。(同じデジタルであっても、仕組みがローカル保存からクラウドに移行したときにすら、微妙にスタンスが揺れたのを覚えている。) そして紙が情報の記録媒体として堅牢で信用に足る裏返しとして、日記の受け手としては信頼し切ることができないのだ。</div><div><br /></div><div>結局、日記としての意味がなくなってしまうので、デジタルの同レベルの開示を紙ノートに対して努めているものの、やはり一定の緊張や強張りを伴う形になっている。</div><div><br /></div><div>以前、某タレントがニュースのコメントで「子供の頃、私は日記帳に名前をつけていて、何か日常で嫌なことがあると『帰ったら〇〇ちゃん(日記帳)に愚痴を聞いてもらおう』と思ってやり過ごしていた」的なことを話していた。擬人化までしたことはないが、一旦人に開示するかのような気持ちになるのにはとても共感する所があった。ちなみに書き終えた日記帳は誰にも見せずに、都度捨てていたらしい。これはひとつの信頼の高め方だと思った。</div><div><br /></div><div>また、去年から聴いてる<a href="https://anchor.fm/image-cast" rel="nofollow">Image Cast</a>というPodcastで東さんが「地中深くにに埋められて、誰にも発見されないまま未来永劫存在し続けて欲しい」的なことを仰っていた。読まれたくはないが、なかったことになるのは惜しい、という矛盾するような気持ちも確かに共感できる。(話題が深くは掘られなかったので、解釈として合っているかは怪しいけれど)</div><div><br /></div><div>ということで自分は今書いているA4ノート日記は一旦書き切り、これはすぐに捨てることにして、今後はまた安心して残せるデジタルに戻るのだろうと思う。余談だが、日記アプリはあまりにサクッと過去の日記を見返せてしまい「歳を重ねて最近やっと分かってきた」と意気揚々と書こうとした真実を、1年前に3年前にも10年前にも同じテンションで発見していることを日々残酷に突きつけてくれる。大変助かっている。</div></div><div><br /></div><div><br /></div>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-4507585234528659382022-01-04T06:21:00.045+09:002022-08-25T17:39:51.975+09:00Kindle<p>7年ほど使っていたKindleを買い替えた。新しい世代が出るたびに少し気にはなっていたけれど、特に不便もなかったので決め手に欠けたのだが、ついに紛失してしまった。おそらく久しく乗った飛行機の、座席前の網の中だ。でも思えば身の回りで、7年も使って不便を感じないガジェットはほぼ皆無で、これは結構特異なことだと思う。</p><p>大体はソフトウェアの進化にハードウェア側が追いつかなくなったり、もっと便利なものが登場して羨ましくなったり、バッテリーの消耗から「そろそろ潮時かな」というタイミングが2〜3年で来るものだが、Kindleはそんないずれのきっかけとも基本無縁なのだ。特に目ぼしいアップデートが無いというのもあるが、そもそもバッテリーの持ちが異常に長く(毎日使っても数週間はもつ)、何よりデバイスが「本を読む」という唯一の目的に特化していて、こちらもそれ以上を求めていないのが大きい。</p><p>そしてそれは7年前の時点で、既に(自分にとっては)十分達成されていたように思う。漫画や雑誌を読むことにも使う人はまだ物足りなさを感じるかもしれないが、少なくとも自分はKindleには活字での読書体験しか期待しておらず、それに関して言えばほぼ何も変わっていなかった。</p><p>強いて言えば、ページめくりの物理ボタンが排されたことが惜しかった。以前は左右の脇にあるボタンでページが送れたのだが、特に左側にあった「戻る」ボタンが消えたのはとても惜しい。というのもKindleは画面タップやスワイプでページめくりを行うが、操作の結果、次のページに行ったのか、あるいは戻ったのか、画面上の反応からはかなり判断しづらいのだ。そもそも「進む/戻る」の挙動を分ける左右のタップ領域が厳密には示されておらず、(デフォルトを「進む」にしたい意図なのだろうが) 中央付近は「進む」であるため、少し偏った位置にその境界がある。やや保険をかけて端の方をタップしても、活字の羅列がふわっと別の羅列にクロスフェードするだけで動きに方向性がなく、操作が意図通りに行われたか、常に小さな不安が伴う。操作位置に依らず、確実性の高そうなスワイプ操作も特に最初の一回はタップと誤認されてしまうことが多く、ページを進めたつもりが前のページを読んでいたことが何度かあった。(ページ番号表示をONにし、それに注視しておく、という手は一応とれるが面倒)</p><p>これがiPhoneなどのスマホであれば、スワイプ時に若干紙面が指にひっついてきたり、タップ時に左右へ軽いアテンションをつけるところだろうが、Kindleの画面リフレッシュレートや処理能力でそんな芸当はできない。普段はもはや意識にすら登らない、スマホ画面のマイクロインタラクションの恩恵を改めて認識するところではあるけれど、それができないデバイスにおいては確実な操作のための代替手段 (=物理ボタン) が有効に働いていたように思う。</p><p>良い面に話を戻すと、期待する機能を既に十二分に満たしている意味では、その存在は腕時計などに近い気がする。デジタルデバイスと言うより、道具やモノの側。そして電子ペーパーを用いた画面特性が、さらにそれを後押ししている。日光下で見やすいというのは、ガジェットの象徴である液晶画面の持つ特性とはいわば逆のもので、未だにはっと不思議さを覚える。結果として無意識に屋外や明るいロケーションを選んで使いたくなることも、存在の認識をアナログに寄せるのかもしれない。</p><p>全く物理本を買わない状況にやや後ろめたさを覚え始めたこの頃でもあるのだけれど、デジタルデバイスの中のKindleの存在もまた良いよね、と思うのでした。</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-6848640736769616302022-01-02T19:42:00.052+09:002022-03-03T15:46:37.973+09:00自分を信じて頑張る<p>小中学校ではよく「自分を信じて頑張れ」的な言葉をかけられたし、目標としても掲げた記憶がある。でも稚拙で当たり前すぎるのか、年を重ねるとあまり聞かなくなるし、むしろ信じないのが責任ある大人、というイメージにどこかですり替わってしまったように思う。</p><p>社会に出ると、圧倒的に自分を信じないことの方が求められる。「朝起きる自分」は信じず寝る前には目覚ましをかける。「いつかやる自分」は信じずタスクリストやカレンダーで進捗を管理する。「今週中に終える自分」も信じずスケジュールにバッファを取る。</p><p>どこか自分自身を変えようとするときも、まずは自分の周囲の「人」「場所」「時間」のいずれかを変えろ、と言われる。そして「自分を変えるぞ!」という自らの意思に頼るのは、最たる悪手だとされる。端的に言うと、たとえ自らを変えたいという状況にあって尚、自分は信用するなというのが通説になっている。</p><p>やる気が出ないときも、自分の意思のせいにはしない。きっと睡眠不足のせいであり、運動不足のせい、あるいは部屋のCO2濃度のせいだと疑う。「自分の状態管理」は自分のせいとも言えるが、基本的には意思というよりも客観的に捉えられる事実、あるいは環境の側に原因を見出して改善を図っている。</p><p>ただ、そうやって「できない自分」の要因をどんどん外部化し対策していくと、いつしか自分が自分ではなく、何か上手く制御すべき対象のように思えてくる。意思を持って取り組んだり、心で踏ん張るときの力み方を忘れてしまう。そんな不安が徐々に大きくなり、20代は前のめりに取り組んできた自己制御・ライフハックの類に、最近は得も言われぬ危機感を覚えるようになってきた。</p><p>自らの意思を無視して「やりたくないこと」に対する行動の制御を繰り返すと、意思を持たない方がいっそ効率が良いことに気づき、あらゆることへのやる気を失ってしまう。本来は意思のサポートであったはずの、上辺だけの習慣やライフハックだけが残り、自分はその弱々しい波間を漂うだけの存在になる。もはやそこに自らの推進力はなく、生物的な性質を利用して機械的に振り回されているだけである。</p><p>そしていつしか「自分が何がしたいか」ではなく「自分をどうしたいか」をベースに思考し、施策を講じようとしていることに気づく。「なりたい自分」を設定して向き合うこと自体は悪くなさそうだけれど、その手前で何か抜け落ちている気がしてならない。たとえ不器用でも意志のある方向へ必死に藻掻いている方が、よっぽど健全に思えてならない。</p><p>こんな状態から抜け出すために、一体何ができるのか。まずは心の機微に目を向けることが起点になる気がする。自分がしたいことはもちろん、したくないことも気に留める。曖昧な状態も許容し、観察する。心のありように目を向け、柔軟に動けるようにする。そうやって心の揺れに対する結果を、自身にきちんとフィードバックしていけば、また意思を持とうとする気力も芽生えるのではないだろうか。</p><p>自分不信を全うすることで社会人として程々に立ち回れるようになった一方で、「自分を信じて頑張る」を軽視していたツケに、今改めて向き合わされているような気がしている。</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-53734490665767019622021-12-06T16:33:00.011+09:002021-12-09T21:50:32.015+09:00SNSかニュースか10月の後半から一ヶ月半ほど、全てのSNSを断ってみた。月並みだけれど、他人の成功とか、頑張りとかを見てるのがしんどくなってしまった。何かをするにつけ、これを投稿しようか、書く場合はどう書こうか、それぞれの切り取り方をした場合に誰にどう思われるのか、迷い考えるのに疲れてしまった。<div><br /><div>SNSを適度には見ない、という器用な調整が自分はできないので、離れる時は完全にゼロにする必要がある。精神汚染のトレードオフで得られる業界や技術の情報は、自分の業務上の生命線なので多少の葛藤があるけれど、断つのはそれを差し置いても心の健全を優先すべきと思われる時だ。</div><div><div><br /></div><div>その間、何度Twitterのログインページ「What's happening?」を開いたことか。Twitter禁断症状というよりは、もはや無意識に刷り込まれているようで、ほんの数秒の待ち時間が発生する(ことが予測される)たびに、指がバックグラウンドからSafariを引き出し(⌘tab→alt) アドレスバーにフォーカスを置き(⌘L) twi...を打って入力候補を見る前にEnterでアクセスしている。そして開かれたページを見てハッとする、Twitter止めてたんだった...と。「What's Happening?」こっちが聞きたい。でも病名あって然るべきなのでは、というくらいの自覚はある。</div><div><br /></div><div>同様にinstagram, Facebookなんかも止めたのだけど、情報中毒故に、どうしても何か目で追うものを欲してしまう。メンタルへの影響が少なく、せめてもの有益さ兼ねたプレーンな情報となると、いつも自分はニュースに行き着く。YouTubeのANN, FNN, JNNのライブ放送や、GoogleやNHKのニュースアプリを開いてはグルグルと巡り続けてしまうが、朝夕晩のトピックなんて大体どこも同じだ。COP26での各国の思惑やら、新内閣のメンバーやら、双子パンダの生育過程や、高齢者によるアクセルの踏み間違えの発生頻度… みたいなことに異様に精通してくる一方で、周りの誰が何を作ったのか、知人・友人たちがどうなったのか、何がリリースされてどう改善されたのか、みたいなことには完全に浦島状態になってしまう。</div><div><br /></div><div>昔は通勤電車のサラリーマンを見て、毎朝新聞を開き社会情勢にキャッチアップするのは社会人として当然の備えだと思っていたけれど、いざ備えてみるとこの状態に一旦何の意味があるのか良く分からなくなる。自分の業務での社会性の要求が低いせいもあるだろうけど、数えれば明らかに暗いニュースの割合の方が多いニュース群を摂取し続けて、本当にメンタルに対してプレーンなのかも怪しく思える。でもニュースすらも断つと、本当に社会と断絶してしまったかのようで、その孤独感や不安もまた苦しい。</div></div></div><div><br /></div><div>そんなことを悶々と考え試していたが、結局少し人と会ったり、運動をしたり、仕事をしたりサイトを作ったりしているうちに大したことには思えなくなり、またSNSにも戻ってしまった。あれこれ悩むくせに結局自分の良く分からないバイオリズムに振り回されてるだけに思えてしまい、無力感を覚える。</div>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-77509783855306001722021-11-30T22:35:00.004+09:002021-12-01T00:10:13.111+09:00サイトリニューアル<p>7年ぶりくらいに自分の<a href="https://gupon.jp">ウェブサイト</a>をリニューアルした。と言ってもデザインは殆ど変わらず。時代に合わせて横幅が240pxほど伸びて、モバイル対応して、全体がNext.jsベースになった。ついでにOGP設定とかもしてみた。</p><p>一応映像屋のサイトであるにも関わらず、WordPressのYouTube/Vimeoモジュール等が壊れて映像がほぼ見れない状態だと気づいたのが、フリーランス業を再開した2年前のこと。2021年も暮れようという今、また(ほぼゼロから) PHPやWordPressテンプレートを学習し直して修正する気にもなれず、そしてそんな崩壊寸前のサイトに新しい仕事を追加する気も起きず、悶々としてさらに1年が経ってしまった。</p><p>せっかくなら今っぽい方法で、と気軽に手を出したモダンウェブ(?)の学習コストが想像以上に高かったのが、こんなにも時間を要した最大の原因だったと思う。未だに正直何もわからない。2014年末あたりに作った以前のサイトは、実家で寝正月を過ごしながらWordPressをポチポチして三が日中にほぼ出来上がった記憶があるが、今回は結局2年もかかってしまった。色々便利になると同時にやたらと複雑さも上がっているように感じるのが半分、そして自分の脳の吸収力の低下を覚えたのも半分。。</p><p>昨年末に<a href="http://labs.gupon.jp">labs.gupon.jp</a>を公開したのだけど、あれはその時点での学習の成果でもあった (このときは<a href="https://www.gatsbyjs.com">Gatsby.js</a>で作った)。そもそもReactが初めてだったので概念を掴むのに苦労したのと、周りに付随するBabelやWebpackやらを束ねるGatsbyとは…、と新出の単語や概念が多くて何度も爆発しそうになった。公式チュートリアルのお陰でなんとかビルドまで漕ぎ着け、出来上がるとそれなりに手応えを感じた。</p><p>同じ調子で本家をリニューアルしたいと思った矢先、よくGatsby.jsと並んで比較されていた<a href="https://nextjs.org">Next.js</a>が横目にチラつき、ここからがまた長かった。学習しては時間を置いて忘れの繰り返しで、結局Vercelの入門コースを3周ほどした気がする。まるで定着しない。サイト左肩にある謎のポイントだけが無駄に溜まっていった。</p><p>でもあるラインを超えてからは、Next.jsでの開発が結構楽しくなってきた。CSS (Sass) などは未だにハック的なノウハウも多いけれど、想像しうる仕組みは大体ストレートに書けば実現できる環境になっていてありがたい。Gatsbyと比べてもシンプルで、個人的には相性が良かった。捗ったのでブログも無駄にGoogle Blogger APIからSSG(+ISR)で出力されるようにした。(10年前の半ば黒歴史のような文章が爆速で表示されるのは、ちょっと怖いくらいだけど)</p><p>あと公開にあたっては試しに連携してみた<a href="https://vercel.com/">Vercel</a>が素晴らしく、そのまま移行することに。古のウェブ開発しか身に覚えがなく、gitでプッシュしたら勝手にサイトがビルド&デプロイされ、アセット類は勝手にCDN対応までされて、ブランチ毎にテスト用プレビューまで作ってくれる手厚さに唖然とする。多少の制限はあれど、これが無料とは一体...。今まで有料FTPアプリ + 有料レンタルサーバーでかけていた手間とお金は何だったのか。Netlifyとかも似た感じなのだろうか。</p><p>---</p><p>特に嬉しかったのは、やっとローカルのファイル群からサイトの直生成が実現できた点。言葉にするとそりゃそうでしょ感しかないけど、プロジェクトを手元でアーカイブするのと同じ感覚で、画像と説明テキスト(markdown)を普通にディレクトリとして組んでおけば、現代風に最適化されたサイトがゴリッと出力されるのはまさに理想形だった (MySQL的なデータベースともう関わりたくない、という強い信念があった)。例えば画像は高画質なものだけを用意しておけば、サムネ用にトリミングしたデータや、デバイス毎にリサイズや変換した画像は勝手に生成してくれるので、本当に元データは最小限のもので済む。</p><p>何より意味的に適切に組まれたデータセットは、時代が変わってもパースする側の仕組を置き換えていけば、データ自体を触る必要がないであろうことに安心感がある。今回は240pxアップのために過去のHDDを漁って元画像を全て作り直したけれど、それも今回できっと最後のはず…。そして今後数年に関しては、Next.jsなど外側のフレームワークさえアップデートすれば、きっとビルド時にその時々の技術でまた最適化されるはず…!という、大抵は妄想に終わる類の期待を胸に、また仕事と更新に励みます。</p><p><br /></p><p><br /></p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-80311349454549374342021-02-24T13:11:00.017+09:002021-11-28T19:17:20.272+09:00作品の境界<p> CGのチュートリアルをこなしているうちに、何となくダイナミックで色鮮やかになった結果を「作品」と誇張する人もいれば、試行錯誤を純粋にログとして記録し続けたものが、ある種の美しさを帯びて「作品」にしか見えないようなものもある。その対極が入り交ざっているタイムラインを眺めていると、「作品の境界」とは何なのか、軽く混乱してくることがある。(「アート」「アートワーク」とかも然り)</p><p>NFTアートが流行るようになって、おそらくは趣味やスキルアップの一環として作られたはずのものたちが、急に大金を生み出すようになったりしている。多くの場合は既に「作品」として公開されていたものであって、急に「作品」と呼び替え始めたという話ではないけれど、「作品」というラベルを貼ることでもたらす経済的な意義が大きく変わったように思えて、その境界への疑念を深めるきっかけにはなった。</p><p>端的に言うと、あの人の「作品」だと主張するものはお金を生み、逆にそう主張されないものたちは一銭にもならないのか、、という疑問。そもそも純粋な探究心や好奇心でしていることにお金を一々紐付けようとする方が下衆いのだけど、作品としての完成度ではなく、そう主張するか否かで世界がまるで変わってしまうように思えて、何だかもどかしい。本当に小手先で作られた、作品ではないはずのものを「作品」とラベリングする人があまりに多いように見えてしまうので、愚直で純粋な人たちに「それ『作品』って呼んだら儲かるそうですよ」と、つい最低で下衆い耳打ちをしたくなってしまう。</p><p>以前から、その「後付け」の傾向が顕著だと思っていた分野の一つに、人体モチーフの3DCGアートがある。そのモチーフで本当に真面目に作っている人はいるし、偶然これを見かけてもどうか気を悪くしないでほしいのだけど、例として挙げてみる。</p><p>人体をモチーフにするとはどういうことか。人間には人体があるし、共感性があるので、例えば人体が足から溶けていくような映像を目にすれば、自分の感覚に置き換える想像力が自然とはたらいてしまうし、呼び起こされる感情もある。実際にそれを利用して、伝えたいことを表現した作品も数多くあると思けれど、人体モデルを溶かして偶然気持ち悪く見えた結果に「作品」とラベルをつける行為には何か明らかな違和感がある。ましてやそれっぽいタイトルをつけて、あたかも「思想のもとに作りました」という体をしているケースは最悪とすら思う。他にもこういう例はあるのだろうけど、特に人体については、モチーフの特性として作者本人に何も考えがなくとも一定の感情を想起させるという点で、そういった安易な「作品化」につい敏感になってしまう。</p><p><span class="author-d-4z65zz66zl57z75zyiz66zfr2fz87zwz89znujeolv5z90z4o9tz81zb5tz79zhz81zz83zz87zjz65zbz78zz78zs2z84zca">別に直接誰かが迷惑しているわけでもないのに、一体この嫌悪感はどこから来るのかと想像すると、真っ当に「作品」を作っている人たちが薄まり、最終的にアーティストやクリエイターという言葉の純度を貶めてしまうことへの懸念だと思う。この2つの言葉が</span><span class="author-d-4z65zz66zl57z75zyiz66zfr2fz87zwz89znujeolv5z90z4o9tz81zb5tz79zhz81zz83zz87zjz65zbz78zz78zs2z84zca s-lparen"> </span><span class="author-d-4z65zz66zl57z75zyiz66zfr2fz87zwz89znujeolv5z90z4o9tz81zb5tz79zhz81zz83zz87zjz65zbz78zz78zs2z84zca h-lparen">(少なくとも自分にとって)</span><span class="author-d-4z65zz66zl57z75zyiz66zfr2fz87zwz89znujeolv5z90z4o9tz81zb5tz79zhz81zz83zz87zjz65zbz78zz78zs2z84zca"> 一定の偏見を帯びてしまうようになった背景には、それを偽って名乗った人たちの影響が少なからずあるからだ。</span></p><p>「state of the art」というフレーズが好きなのだけど、これはアートや作品につけられるものというよりは、何かしら信じられないレベルで最高の水準に達しているものを「アート」に例えて使う言葉だ。個人的に「作品」や「アート」という言葉のイメージは、かくあり続けてほしい。</p>guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-30486672245527556632020-01-07T19:08:00.000+09:002020-01-08T00:21:07.375+09:00GROOVE X2018年から2年弱ほど <a href="https://groove-x.com/" target="_blank">GROOVE X</a> という会社にお世話になり、<br />
LOVOTという生き物の開発に携わっていました。<br />
<br />
当初はUI周りのデザイナーとして参加したものの、入ってみるとエンジニアリングを求められる機会が多く、結局コーディングしている時間の方が長かったように思います。プログラムを修正しては机に乗ったLOVOTが少し動く、というまるで子供の頃夢見たような開発風景がそこかしこで見られる職場で、控え目に言ってわくわくしました。<br />
<br />
卓上で首をもたげたり腕を振ったりするLOVOTを見ながら、サーボへの出力まで扱うモーションデザイナーは稀かもしれないなーと少し浮ついた気持ちになったりもしましたが、自分の担当は動きそのものというより周りのアニメーターさんが使うしくみ側 (補間エンジンやライブラリ) の開発がメインでした。制御のパラメータやその抽象化を考えるのは映像のプラグイン開発にも通じる部分があって、それはそれで楽しかったり、コードレビューやテストのガンガン回る、チームとしての大規模な開発への参加も新鮮でした。(個人的に幾度となく挫折していたgitをきちんと道具として使えるようになったのも代えがたい収穫でした)<br />
<br />
また、2019年に入ってからは改めて映像・デザインの分野でも腰を据えて取り組む機会にも恵まれました。自分のバラバラとした(ある種半端な)スキルを幅広く前向きに受け止めて頂き、伸び伸びと活動させてもらった結果としての経験を数多く積むことができ、感謝に堪えません。<br />
<br />
LOVOT - <a href="https://lovot.life/">https://lovot.life/</a><br />
<br />
特に生物感のある眼球制御や、そこに映り込むUI群には深く関わっていたので、機会があれば是非触れ合って見て下さい。(特に目が合う感覚は不思議なものがあると思います)<br />
<br />
--<br />
<br />
そして年明けと同時に、またフリーランス(映像デザイナー)としての活動を再開しました。<br />
在籍中に得た贅沢な学びを活かしつつ、映像屋としては少しナマった諸々を取り戻すべく、あれこれ試しては藻掻いている最中です。<br />
<br />
本年も何卒よろしくお願いします。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-7775572319452949122018-03-06T22:15:00.000+09:002018-03-06T22:56:17.597+09:00みなまで言わないみなまで言わない、が中々上手くならない。余計な言葉が多い。<br />
<br />
「みなまで言うな」は多くの場合「それ以上言わせてしまっては相手が可哀想」みたいなニュアンスで用いられることが多いけれど、ここで意味したいのは言葉数を抑える美徳のことだ。正しく伝わらないことの方が怖くなって、つい言葉が多くなってしまう。<br />
<br />
仕事においては丁寧な説明が大切だと思う。けれど私的なコミュニケーションにおいては内容が正確に伝わることよりも、その発言の湛える雰囲気や佇まいの方がよっぽど大事な場面が多い。どんなに言葉を選んだとて、言葉数が多い時点でそこに帯びる一定の圧や硬さ、そして鈍くささが拭えなくなってしまう。<br />
<br />
極端な例を挙げると、口数少なくボソボソっと話す寡黙な主人公はかっこいい、というやつだ。去年、周回遅れでハマった<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF" target="_blank">プリズン・ブレイク</a>の主人公、マイケル・スコフィールドはその典型で、彼は思いついた脱獄プランについて周りから「看守の目を盗む作戦はあるのか?」「準備まで時間がなさすぎる…!」と口々に問い詰められても、じっと遠くを見つめて「明日、実行する。」とだけつぶやくタイプの人間だ。<br />
<br />
もはやコミュニケーションとして不成立に見えるが、その一言にはっきりと自信が伺える。彼は冷静沈着・用意周到な人間なので、やろうと思えば各事象に言葉で丁寧に反論することもできるだろうけれど、自信表明としては断然前者の方が強いし、かっこいい。(下手するとただの中二病だけれど)<br />
<br />
そもそも<a href="http://blog.gupon.jp/2015/02/blog-post.html" target="_blank">言葉にした時点で誤変換がある</a>のだから、せめて表現できる範囲のことはあらゆる方面から言語化しておきたいと思う一方で、そこに振り切ってしまうと興ざめなのだから難しい。そして単に「言葉数の少ない人」を目指したところで、変に拗らせただけの人間が出来上がるのも目に見えている。本来は人として大人になった結果として、自然と抑えられるものなのだろう。<br />
<br />
ただ普段のデザイン作業から考えてみれば、余白が無いと伝わらず、佇まいが生まれないのは当然のことに思える。意味の似た装飾を排し、用いたい要素を絞り抜いた結果として、そこに重みが生まれる。分かり易すぎる図版やロゴよりも、少し間引かれたものにこそ心惹かれ、頭で補完しようと思考が参加することによって自然と心に残る。それは言葉に対しても同じなのかもしれない。<br />
<br />
そもそも「みなまで言わない」の説明でこの長さになっている時点でお察しの通りなのだが… これからは少し我慢するくらいの気持ちで、言葉の余白を作れる大人になりたいなと思ったのでした。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-24434515320493510612017-10-28T17:32:00.002+09:002017-10-28T20:25:12.065+09:00無くならない: アートとデザインの間佐藤直樹さんの「<a href="http://amzn.asia/iGKHrr0" target="_blank">無くならない: アートとデザインの間</a>」を読んだ。キャッチーなタイトルに良い意味で裏切られ、節々に驚くほど共感を覚えたので、本の感想は苦手だけれど書き留めておきたい。<br />
<br />
内容は「アートとは」「デザインとは」に対する汎用的な対比や解説というよりは、個人的にはまるで「自身の観察記」といった印象を受けて、それがとても良かった。これまで何をしてきて、何を見て何を感じ、何がしたかったのか… という経験や心境の変化をじっくり観察することを通して、今続けている「描く」という行為への理解や納得に帰結させようとするものに思えた(その道筋において、アートやデザインの社会的位置づけなどにも丁寧に触れられている)。また、業界というより彼自身にタイトルの二面性があり、その間に流れる深く暗い川の両岸を、ひたすら行き来しながら書かれているようにも見えた。かっちりとした結論に導くでもなく、悶々と悩みながら右往左往する様子がそのまま描かれていて、それ故に言葉が自然と入ってくる。<br />
<br />
まず何十年と第一線で張っていた人が、依然これほど根源的なところで悩み続けている事実に、半ば絶望しつつも勇気付けられる。自分のやっていることに自分できちんと説明のつかない状態は、自分程度の浅はかさでは当然のこととすら思えてくる。<br />
<br />
自分は佐藤さんと違って大した実績も経験もなければ、幼少期からの表現に対する技術も原体験も持ち合わせていない。それでも不思議と、扱われているこの仕事や業界を巡る多くのモヤモヤに共感してしまう。偶然にも自分も転校の多い人生で、それが書籍にあるような性格形成に繋がっているかは分からない。でもこういう人間は、この面倒な思考回路に今後も長く付き合うことになるのだろうな、という諦めと覚悟を持つと同時に、その成れの果ての姿としてはある種の憧れすら抱く。<br />
<br />
自己分析への距離感や姿勢にはじまって、「肩書き」「作品」「型」「忘我」「木彫りの熊」「職能」「考えない」… など、各テーマに対する細かい共感を挙げるとキリがない (というか本で書かれている「やられた」の感覚に近い) 。でも何より、これら全体を通して様々な面から言語化しようとするもどれもしっくりこない、共通項としてぼんやり浮かび上がる「何か」への共感が一番大きく、嬉しかった。<br />
<br />
いつも部分的にすら他人に上手く説明がつかないし、自分ですらよくわからないものについて、ここまで他人側から共感を受けるのかという驚き。それは多分「よく分からないし、誤解を生むかもしれないけれど、例えばこういうこと」を何例も繰り出していくしか無いのだろうけれど、これほど見事に浮き立たせた例もまた無いように思う。言葉にすることで失われるものへの怖さに十分敏感でありながらも、慎重に表現のアプローチを重ねる姿勢に、自分も言葉にする努力をしていこうと思った。<br />
<br />
本の中でなされている議論の中には、まだまだ自分の知識・経験では全く及ばずについて行けない箇所も多くあったので、また数年後に読み返したいと思うけれど、今読めて本当に良かったと思える本でした。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-4272315269978628512017-10-14T18:32:00.006+09:002017-12-26T15:40:51.172+09:00メール仕事の連絡が、丁寧なメールのみで進む仕事が結構好きだ。実際に使ってるツールは、LINE、Facebookメッセンジャー、Slack、Skypeあたりが多いけれど、参加した時にメールベースで進む案件だと分かると、ちょっと嬉しい。別に新しいツールに抵抗がある世代でもないし、基本的にはむしろ恩恵を与っている身だけれど、それでもチャット至上主義にはなれないというか、メールの良さだって大いにあると思うのだ。<br />
<br />
メールは儀礼的な言葉やテンプレも多いし、1行程度の内容では間抜けで送りづらいし、何かと面倒な連絡手段だとは思う。でもだからこそ、送信することに対して少し丁寧になる。チャットに比べた不便さが生む、良い重さや緊張があると思う。<br />
<br />
まず内容に関して、チャットに比べて幾分か慎重になる。使う言葉を選ぶ。文ではなく文章としての読みやすさを加味するし、テキスト全体の形を整えるために改行位置にも気を使う。段落間の繋がりや、全体の流れも意識する。同じ内容であっても、伝え方の中に確かな気遣いを含ませることができるように思う。受け手としても、そのようなメールを受け取ると背筋が伸びるし、向き合う内容にも自然と注意が向いてくる。<br />
<br />
あとは上手く言えないけれど、メールは人に依頼や報告をするにあたっての、適切な重みを帯びてくれる気がする。チャットの場合はどんな内容でもペラっとした裸の便箋で渡すような感覚だが、メールはその気になって書けば、厚手の紙を封して送るような重みを帯びさせることもできる。たいそうな尊敬語や修飾語を使わずとも、フォントを太字や明朝体にしなくとも、文章上の様々なディテールの積み重ねが適切な佇まいを作ってくれる気がする。<br />
<br />
機能的な意味でも、SlackはまだしもFBやLINEには流石に無理を感じることがある。単に、あまり長い内容をやりとりするように設計されていないのだろう。特に映像のアップデートを報告する際は、 ①どんな修正要望に対して ②どのように考え試行錯誤を行い ③結果としてどのような処理をしたのか を各点に対して列挙するので必然的に長くなってしまう。あの吹き出し枠のインターフェースに、読みやすい形では書けない。<br />
<br />
先方がモバイルで読むことも想定すると、改行を加えることでかえって読みづらくさせることがあるので、「文面」として整形しようが無い。引用返信のような仕組みもないので、丁寧に返信しようとしても上手くいかない。気遣いたくとも雑さを強いられる感じがして悔しい。メールなら段落等で上手く区切れば、項目単位の情報として分かりやすく1通にまとめられる。こちらが丁寧に書いてさえおけば、相手は項目毎に読み飛ばすか、熟読するかをそれぞれ選ぶことだってできる。<br />
<br />
もちろんチャットベースで細かくフィードバックとアップデートのサイクルを回すことが大切な仕事もあるだろうし、社内の細々した業務連絡、ざっくばらんなブレスト、アイディアを出し合いながらの開発など、チャットが最適な場面はたくさんある。でもメールで進む案件というのは、裏を返せばスケジュールに余裕があるということだったり、せわしくなく連絡を取らずとも滞りなく進行する仕組みが存在することであったり、相手への信用のベースが高いことであったりする。<br />
<br />
毎日せっせと取り組んでいながらも、月に数通のビシっとしたメールを交わせば進むような仕事は、互いに余裕と緊張のバランスのとれた、中々気持ちの良いものだと思う。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-69748075060033648082017-10-06T11:16:00.002+09:002017-10-15T14:18:07.737+09:00クズ期間「全力で頑張らねば!」と思ったときの、休みの取り方が毎度難しい。「寝る間も惜しんで体力の続く限り」とかの頑張り方はせいぜい2日間が限界だ。1週間、1ヶ月単位ではそうもいかない。モチベーションも徐々に落ちてしまう。この場合、きちんと休憩の運用を考える必要がある。<br />
<br />
仕事をしようと予定を空けていた週末、結局だらけてしまって作業も半端になり「こんなことなら最初から休めば良かった」という経験、在宅フリーランスに限らずよくあると思う。週末の個人的な用事なら「やっちゃったなー」と反省し平日また頑張れば良いが、自分の場合、これが仕事のリスクと直結してしまう。<br />
<br />
この「自分が動いてほしくても動かない」状態を総称して「クズ期間」と呼んでいる。これは不慮の事故として処理するには再現性の高すぎる、目の避けられない自分の現象・性質であって、仕事のスケジューリングにおいても考慮せざるを得ない。妥当に見積もる必要がある。<br />
<br />
例えば「1週間ぶっ通しで頑張れば終わる!」と7日間分の作業を1週間で見積もってはいけない。このくらいなら誰でも直感として分かるが、ならどの程度、どのような休みを挟めば自分は安定して稼働し続けられるのか。これを正しく見積もるのは本当に難しい。もちろん人によっても違うだろうし、その時の体調にも、メンタルにも、休みの取り方にだって影響を受けてしまうだろう。<br />
<br />
特に「やばい!今回ばかりは本当に時間がない」とか「絶妙にズレて複数案件が被ってしまった!」という非常事態(と言いつつ日常になりがち)においては、小さな予定外の作業にすらヒヤヒヤしているものだ。特に後者の場合、正常進行していた案件に対してはとっくに罪悪感で胸が潰されそうな気持ちになっている。そんな中で休んだとて心から休まらないかもしれないが、それでも自分のクズ部分は不動のものとして存在している。いつか必ず意思に反して体は動かなくなるので、たとえ正当化が適わなずとも、休まねばならない。<br />
<br />
効率が落ちていく可能性を無視して気力で走り続けていると、いつか動かなくなったとき、原因の分からなさからの罪悪感や、自尊心へのダメージがあまりに大きい。「やっぱり頑張れなかった」みたいな落ち込み方は負の循環を生むし、そこからの復帰にもまた無駄な時間がかかる。適切な休みを挟むことでそれは回避できたことだし、トータルで進む仕事も増えるので、休息の確保は「非常事態」への対応としても正しいはずだ。<br />
<br />
もし「n日連続稼動すると、y%ずつ作業効率が落ちる」みたいな客観的なデータがあればどんなに救われるだろうと思う。「最高パフォーマンスで1ヶ月動くには、このスケジュールで休まないといけない」という、責任感を振りかざして休むことができる。でも実際はメンタル面の大きく作用する、極めて不確実な現象で、そこに自信を持って時間を割けないのが正直なところだろう。「お急ぎの所大変申し訳ありませんが、このままだときっと自分は動けなくなり、後々のプロジェクト進行への影響も予想されますので、明日は対応できません。」が果たして言えるだろうか。<br />
<br />
ただ、こればかりは確固たる一般論があるわけでもないし、結局は他の作業と同様に、経験則からある程度余裕をみて見積もるしかないのだろう。意思が弱いと言われれば全くもってその通りなのだが、まずは一定のクズさを受け入れて、何度も想定と反省を繰り返すことが必要なのだろうと思う。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-14724004990041515712017-10-02T00:10:00.007+09:002017-10-15T14:34:15.000+09:00カウントジムでトレーニングをするとき、ざっくりと「今日の限界まで!」という決め方で望んでいる人はあまりいないと思う。マシンであれば「30kgで10回 x 3セット」とか、ランニングであれば「9km/hで30分間」とか、ある程度、数字で目標を立てておくのが普通だろう。体調によって実際の成果が上下することはあるにせよ、何かしらのゴールがないと何となく頑張りづらいものだ。<br />
<br />
この「目標を立てる」というのは小学生の頃から慣れ親しんだ一種の自己実現方法だと思うが、それをより効果的にしているのが、遂行中の数えるという行為(進捗の客観視)にあると思う。数えるだけで、数えないよりも自分が余分に動ける。これが地味に不思議なのだ。そしてアホな仮定だけれど「数える」という発想そのものが無かったらどうなってしまっていたのだろうか、とよく思う。<br />
<br />
例えば筋トレであれば1セット「10回」と決めたとして、もしその10という数がなかったとしたら、その手前でとっくにやめてしまっている気がする。10という数字があって、それがカウントできていることによって、たとえ7~8回のあたりで限界でも10までは頑張ろうと思える。無事に終えたとき、ああ、自分はカウントすることができて良かったなあと思う。<br />
<br />
ランニングなんてもっと顕著だ。走り始めに「30分」と決めたら、たとえ25分の時点で限界を感じていても、なんだかんだ走り切れてしまう。その+5分は明らかに「最初30分と決めて、今25分間は既に走り終えていて、あと5分で目標達成できる」と確認する行為があっての成果だと言える。タイマーを眺めて、29:57… 29:58… 29:59… 30:00!! と切り替わった瞬間にガクッと脱力すると同時に、達成感を得られる。<br />
<br />
この行動原理はイマイチ分からないのだけど、よく聞く「食べたもの(あるいはカロリー)を記録するだけでダイエットできる」みたいな話が、この根本にあるような気がした。ログをとることによって、客観的に一度自分を認識すると、体が勝手に頑張れるようになる。(無意識にでも)想像していた目標と、実際のズレを目の当たりにすることで、その差分を自ずと埋めようとしてしまうのではないか。<br />
<br />
そんなことをぼんやり考えつつ、教室で出欠をとっている時にふと「日々実行していきたいあれこれ」を出席簿的に羅列した表を作ったら、ひょっとしたら効果的かもしれないと思った。縦に習慣化したいことをずらっと並べ、その日の終りに、今日できたことには◯(出席)、できなかったら/(欠席) の印をつけていく。そのログを眺めるだけで、多少それらが継続に向かう力が何かはたらくのではないか。TODOリストではなく、やったかどうかリスト。(いいからやれ)guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-41507468832623350302017-09-25T21:56:00.000+09:002017-10-06T12:18:34.482+09:00カラオケ #2自分はよく一人でカラオケに行く。<a href="http://blog.gupon.jp/2017/09/blog-post.html" target="_blank">前回</a>は苦手だった経緯を書いたけれど、どうして逆に振り切れて、欠かせない習慣として定着したのか。何となく認識しているカラオケの効能や、好きなところから、自分自身に対して探ってみる。<br />
<br />
---<br />
<br />
<運動と声量><br />
自分は生活の上でも性格の上でも、発声する機会が少ない。声量を上げることはさらに少ない。家での日常会話は存在しないし、他の会話はレジでの「結構です」、飲食店での「ごちそうさま」、仕事電話の「了解です」くらいの単語でほぼ賄えてしまう。友人と議論で激昂することもないし、肩を叩いて激励し合うこともない。声を張る機会なんて滅多に無い。<br />
そんな自分が、稀にある撮影現場で「スタート!」や「カット!」の声が(ギリギリ)通るのは、カラオケのおかげだと思う。筋トレと同様に、普段出さないレンジまで声を定期的に出しておかないと、声量が日常会話のそれを上限とみなして衰退してしまう。表情筋についても同様で、使わなければいずれ頬や眉が凝り固まってしまうだろう。<br />
<br />
<感情と表情><br />
会話の少なさに加えて、自分は感情のレンジがおそらく人より狭い。ゆえに、表情にも乏しい。でも歌うときには、自分よりもずっと感情豊かな人たちの言葉を借りて、表情豊かに喜んだり、怒ったり、夢を叫んだりする。暴力的なラップを歌う時、熱いバラードを歌う時、普段とはまるで違う言葉遣いで、話さないような速さで、普段全く使うことのない筋肉を酷使する。大げさに言うともはや外身だけが自分で、他人が憑依した状態に近い。<br />
不思議なことに明るい顔で歌うだけで、歌声も驚くほど明るい印象になる。逆も然りだ。表情の変化は音程やその他様々な要素となって、歌声に確かに影響している。だから全力で表情をつくる。すると自分も、普段あまり持たない感情を抱くことに気付く。「楽しいから笑うのではなく 笑うから楽しくなる」とはYUKIの歌詞の一節だが、表情から感情にはたらきかけることは可能なのだ。<br />
<br />
<ストレス発散><br />
仕事に大したストレスはないけれど、大声を出すのは単純に楽しい。自律神経にも良いと聞く。<br />
<br />
<自己検診><br />
前回の記事で書いたようにいくら初期条件を注意して揃えても、うまく歌えないことがある。明るさが足りない、息が続かなかい、といった比較的分かりやすい状態もあるし、言葉にできないような妙な印象を受けるだけのときもある。そういうのは、自分の体か心がイレギュラーな時だ。歌うと、それまで自分が気付かなかったような自身の些細な変化に気付くことができる。風邪の引きはじめから心の小さな凹みまで、歌声には如実に反映されるもので、カラオケはちょっとした体調チェックも兼ねることができる。<br />
<br />
<身体的学習><br />
これは上で挙げたような心身の健康のためというよりは、もう少しプラスアルファの楽しさについて。<br />
自分は職業柄、知識を通して体系立てて「頭から」学習する機会は多くても、その逆は少ない。歌は当たり前だけれどダンスとかと同じ「身体から」覚えるもので、その学習曲線・成長曲線が全く違うように感じられ、それが新鮮でおもしろい。<br />
特にそれを実感するのは、経験則として一番良い歌声が出るのは決まって「何も考えていない時」であるということ。「もっと息吸わなきゃ」「頭の後ろから声を出すように」「口が開いてない」「喉からではなく腹から」…など色々思案すればするほど歪みが生じ、上手くいかない。逆に何も考えず、ただ歌うことに集中できている時は、全てが自然と正しいバランスで保たれていて、声質も良いし、歌っていて楽しい。歌う、という極めて繊細な全身運動において、左脳的な細々とした理屈がいかに無力かを痛感する。<br />
<br />
なんだか宗教臭いけれど、このような感覚先行で意図して自分の身体をコントロールできたことがなかったので、初めは衝撃だった。頭で上手くやろうとするほどに逆にはたらいてしまう感じが、最初ちっとも楽しめなかった最大の要因だったのかもしれない。今はむしろ、あえてボイトレのメソッド等はあまり調べずに、とことん身体で試し、そこで感じる「うまくいった!」という小さな成功体験のみを細かく捉えるようにしている。<br />
<br />
身体的なスキルは「できた!」ときの喜びが本当に大きい。喜びがリアルタイムにフィードバックされて、すぐさま声に反映されていくスピード感も、また楽しい。<br />
特に音域については分かりやすい。最初はちっとも出なかった音が、か細い声でも初めて出た時、ちょっと無理してでも前の音から繋がった時、最終的に何も考えずに自然と出るようになった時… と同じ曲の同じ音に対して、何度も嬉しいタイミングがやってくる。それが歌っている中に自覚できると、その瞬間から一気に声に張りが出る。この繰り返しが続くと、もう自然と歌うのが止められなくなってしまう。<br />
<br />
---<br />
<br />
カラオケに何年も通いながら、ぼんやり考えていたことを初めてテキストとして書き出したら少しスッキリした。今は以前ほど人と一緒に行くカラオケに強い抵抗感は無いけれど、自分にとってのカラオケは心身を整える調律のようなもので、人との筋トレや瞑想が想像しづらいように、やっぱり一人がしっくりくる。<br />
(そもそも、こんな面倒なカラオケは相手が御免だろうけど)<br />
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今の働き方や考え方に合致した貴重な習慣なので、これからも楽しく続けて、捉え方の変化を観察したい。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-83885111550208958832017-09-23T19:42:00.001+09:002017-10-15T14:35:29.912+09:00カラオケ #1自分はよく一人でカラオケに行く。行き始めたのは高校の終わり頃からだったように思うので、もう始めて10年弱になる。生活も仕事も環境が頻繁に変わっていたせいで、たまに期間が空いたりしたけれど、なんだかんだ習慣として戻ってくる。それは何年か疎遠でもまたすぐにくだらない会話を再開できる友人のようで、これは相当な腐れ縁になるぞ、と最近実感として分かってきた。<br />
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でも元々カラオケは大嫌いで、そういう状況になりそうな時は全力で避けていた。というのも小中学校の頃の合唱は大好きだったのに、いざあの部屋、友人の前で、J-POPの類を歌おうとすると勝手が全く異なって、ちっとも上手く歌えなかったからだ。合唱の頃に習った口の開き方や、呼吸法、声の響かせ方など、全てが無意味に思えた (実際は活かせるのだろうけど、当時の自分にとっては)。一方で上手に歌う友達は全くそんなこと気にしていない風だったし、何より楽しそうだった。<br />
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好きだった「歌う」という行為が楽しめないことがとにかく悔しくて、そこに立ち向かうべく通い始めたのがきっかけだった。ただ、最初の数年間はちっとも楽しくなくて、いつも絶望的な気持ちで部屋を後にしていた。まず息が持たないし、高さも足りないし、リズムも取れない。自分の歌えてなさを自分で痛いほど自覚して、ひたすら凹む。頑張ってリキむと喉が潰れて痛くなり、さらに声はひどくなり、1曲すらも完唱できない。なんでこんなに歌えないのか分からない。でもまた歌う。また曲を入れてマイクを持って、また凹む。それを繰り返す。「ストレス発散」というイメージとは真逆のヒトカラに、悔しくて、何度も通った。<br />
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そのうち10回に1回くらい、「今日はちょっと歌えた」と実感できる日ができた。男性ボーカル曲をあきらめて、女性ボーカル曲のオクターブを下げて歌ってみたら、音はいくらかとれるようになった。あとは低音でそこまで音程の上下しない、ラップであれば歌えた。ラップはあの速さで自分の口が動き、同期すること自体に楽しさを得られた。歌った分だけぴったり合ってくるので、練習の甲斐もあった。合唱の基本は一旦忘れて、話すことの延長のつもりで、もっと楽に歌うようにした。そうやって少しずつ、当初まるで歌う気の無かった曲で練習していたら、カラオケそのものが楽しかった回数は増えた。<br />
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それでもやっぱり絶望する日の方が多かった。調子の落差が激しかったし、一旦喉がダメになるとその日は部屋を出るまで復調しなかった。初期条件を揃えるための準備運動が必要なのだと思い、色々調べた。息を限界まで吸って細く長く出し切る横隔膜の体操、「ラ・ガ」を連続して発生する喉を広げる運動、「い」の発音を維持したまま徐々に「う」の形へ唇をシフトさせていく口周りの運動など、違う部位に対していくつかの準備運動すれば身体の初期条件がある程度整うのが分かった。あとは喉に影響しないドリンクを選び、無理の無いスピードで徐々に音域が上がっていく曲を、最初に歌う曲として固定しておく。これでだいぶ「楽しかった」と思える日の確率が上がっていった。<br />
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楽しめるようになってくると、より上手く歌いたくなった。楽器用のマウスピースを用いた呼吸のトレーニングや、布団の中でのボイトレなど、余波がカラオケルームの外にまで及んできた。自分にとって最終手段だったけど、iPhoneで録音して、時間をおいて聴き直したりした(ひどく自分の声に抵抗があったので)。実際ひどくショックを受けたし、歌いながら聴くよりもはるかにヘタだったけれど、これが人前に出る前で良かったとしみじみ思った。まだ音程のズレはカラオケ筐体の機能である程度分かるけれど、リキんでいて全くスムーズじゃないとか、何より全然楽しそうじゃないとか、そういうのは録らないと全然気づかないことだった。楽しそうな曲は、楽しそうな顔で歌う必要があるとわかり、以後は部屋の反射物を探して鏡代わりに表情や口の広げ方も見るようになった。<br />
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そんなこんなを続けて、今はカラオケで楽しくないことがほぼなくなった。<br />
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数年して慣れてきたあるとき、ふと始めた頃にまるで歌えなかった男性ボーカル曲を入れてみて、音が自然に歌声として自分の口からでたときは、言葉にできない感動があった。歌っていて信じられない気持ちになった。もっとも学生時代の友達は特に苦労もなく歌っていたものだったし、一般人からはまだ程遠いのだろうけれど、それでもこんなに嬉しいことはなかった。<br />
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カラオケが楽しくなってからの話を、近々続きで書きます。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-81200565241160963072016-05-14T23:44:00.000+09:002016-05-14T23:49:06.526+09:00模様替え部屋の家具の位置を変えたときの印象の変化は、大体いつも想像を超える。<br />
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知ってるものが、知ってる空間の中で動くのだからと、つい知った気になってしまう。住めば都というか、一度決めてしまうとそういうものとして受け入れてしまうし、それ以上を望む発想も中々生まれない。でもいざ試してみると、自分の想像が全く及んでいなかったことにたくさん気付く。<br />
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1つ前に住んでいた家があまりに狭くて、すぐ引っ越すことにはなったけど、家具レイアウトに関してとことんもがく機会を得たのは良かった。ふつうベランダ窓前の空間をベッドで潰したりはしないだろうけど、そんな配置すら試す必要に迫られて、結果としてそれ以上のメリットがあったりもした。何より、位置を変えるだけでこんなにも部屋が変わるのかという経験がたくさんできた。<br />
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思えば平面構成ですら実際に試して眺めてみないと分からないことが多いのに、空間が変わるのだから、想像できる方が不思議というものだ。たとえちょっと机とベッドの位置を入れ替えるだけでも、大げさに言うと空間が全く別の形になっているし、ドアや窓との関係も変われば導線や明るさも変わるし、ベッドや椅子からの景色だって全て前とは違うはずだ。<br />
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やってみると、まず思ったよりも強い新鮮さに驚くと思う。でも多分それ以上に大きいのは、気づきもしない自分の行動パターンへの影響だ。意識できる新鮮さは三日も経てば薄らぐだろうけど、無意識への影響は多分気付かないところでその先もずっと続くし、それは作ろうとして作れる類の自己変化ではない気がする。<br />
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例えば、窓の前から家具をどかせば、きっと開け閉めを頻繁にするようになる。部屋に入って最初に机が目に入れば、とりあえずその前に座ろうかという気にもなるし、逆にそれがベッドなら、まずは仮眠から入るかもしれない。椅子から本棚がよく目につく位置にあれば、手にとって目を通す機会も増えだろうし、ベッドからテレビが見えれば、中々布団から出られなくもなる。<br />
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そういう小さな行動変化の累積は、力いっぱい掲げた目標に対する能動的な変化よりも(特に意志の弱い自分にとっては)おそらくずっと大きい。部屋の模様替えだけでこれだけ変わる可能性があるのだから、住む場所や職場を変えたら、別人になったって不思議はない。なんだか環境に流され続けているようで無力感も覚えるけれど、なんとか無意識な自分をうまく誘導してあげることで、少ないエネルギーで望んだ変化を自分にもたらせる気もする。そしてそこにはきっと、意識的に動く余地がある。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-15170530764279908752016-01-03T03:09:00.002+09:002016-01-15T17:23:50.384+09:002016明けましておめでとうございます。<br />
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昨年、幾度となく書き直しては下書きに入れていた<a href="http://blog.gupon.jp/2016/01/blog-post.html" target="_blank">暗めの記事</a>を昨日は強引にまとめて上げてしまったけれど、別に今そんなに悩み苦しんでいるわけではないのです。去年同様、半分仕事しながらのぼっちな年越しだったけど、それなりにゆったり正月を過ごしてます。<br />
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この1年はとにかく引っ越しが多かった。3度引越して、4軒の家に世話になった。部屋の内見、賃貸契約、退去前立会、免許証の住所更新、転居届と転入届、国民健康保険の脱退と加入、郵便物の転送届、粗大ごみの手配、ダンボールの荷詰めと開封、水道・電気・ガス・インターネット系インフラの停止や開通工事… そんなことをひたすらループしていたら1年がおわった。地理的には祐天寺 (目黒)→ 阿佐ヶ谷(杉並) → 外神田(千代田) → 根津(文京) という感じ。その都度、生活の最適化を図ろうとした結果なのだけど、無駄が明らかに多かった感は否めない。<br />
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引越しの大きな理由の1つは、<a href="http://sobo.tokyo/" target="_blank">SOBO</a>という場所に夏頃から席をお借りするようになったからだ。フリーランスとしての動き方は変わらないけれど、<a href="http://asyl.co.jp/" target="_blank">Asyl</a>の皆さんと職場を共にしながら、何かお手伝いできることがあれば映像担当としてメンバーに加えて頂いている。ギャラリーが併設されてるのもあって自然と多くの出会いがあるし、何より職場があって、日常的に顔を合わせる人がいることのありがたみが身にしみている。<br />
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仕事的にも印象深い仕事の多い年だったし、新しい縁にもたくさん恵まれた。<br />
稲葉秀樹さんとの初仕事<a href="http://gupon.jp/work/anayi-spring-summer-2015-collection-movie" target="_blank">ANAYI</a>、日本科学未来館での常設展<a href="http://gupon.jp/work/cells-in-progress" target="_blank">「細胞たち研究開発中」</a>、珍しくディレクションから編集までさせて頂いた<a href="http://gupon.jp/work/who" target="_blank">WhO</a>、贅沢な音源にひたすら編集を試した<a href="http://gupon.jp/work/brewed-in-kyoto-with-shuhari-spirit" target="_blank">松本酒造</a>、集団ダンスで現場が最高に楽しかった<a href="https://youtu.be/lkYKUC0FNq8" target="_blank">ふわっとディスコ</a>、池田さんと100人以上の笑顔と丁寧に向き合った<a href="https://youtu.be/AJK-BWOXwW0" target="_blank">福笑い</a>、有楽町MUJIの大画面に大好きなマスクアニメーションで挑めた<a href="http://gupon.jp/work/muji-infill-0" target="_blank">INFILL 0</a>、最高の制作チームに参加させてもらった<a href="https://www.youtube.com/watch?v=KbNWMMqHiGw" target="_blank">Audi@IAA</a>、ソニービルにてプラネタリウムに投影して重ねた<a href="http://www.sonybuilding.jp/eventspace/opus/soundplanetarium/" target="_blank">サウンドプラネタリウム</a>、憧れだったNHK特番のオープニング映像… などなど。ここに書けない仕事でも濃くて新しい実りがたくさんあった。<br />
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特にAudiの一件は初めて外部の本格的なCGのワークフローに微力ながら貢献できたのと、<a href="http://comp-inc.com/" target="_blank">Composition社</a>の方々とドイツまでご一緒させて頂き、個人的には仕事絡みで初めての海外<strike>旅行</strike>出張となったのもあって強く印象に残った。ドイツとAudi、本当に美しかった。。<br />
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一方でプライベートの比重は過去最高に低かったように思う。。フリーなので誰に指示されたわけでもなく、自分で選択を重ねた結果なのだけれど、年末、いざプライベートの比重を上げようとしても何も思いつかず、なんだか思考停止してしまった。年始あたりになって、ふと何かを楽しんだり、楽しみを作るメンタル的体力が限りなくゼロであることに気付いて、これはサボりすぎたな、と反省した。<br />
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今年は少し仕事面での新しい動きもありそうなので、しばらくの間は少しペースダウンしつつ考える時間をとりたい。キャパに対する悩みはむしろ大きくなる一方だけれど、それでも落ち着いて考えないことには仕方がない。こんなに抱負がぼんやりとした新年も珍しいなと思いつつ、いろいろ見失わないように、呼吸を整えながら照準を定めていきたい。guponhttp://www.blogger.com/profile/14478376742313397094noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7920139966002801730.post-4492341918669223832015-12-30T03:05:00.000+09:002016-01-02T03:34:02.656+09:00ちょっと別件で。キャパオーバーは最悪だ。<br />
余裕がない。人に時間も合わせる余裕も、人の気持を考える余裕もない。頭は朦朧とするし、最高な仕事であっても新たに発生する作業時間ばかり気になって、前向きな提案の一つもできない。作業の中で何かを学ぶ余裕もないし、試行錯誤も細かい対応もできない。人に頭を下げ続け、ひたすら健康と信頼を失い続ける。何をとっても最悪としか言い様がない状態だけれど、どんなに避けようとしても、起こるときには起こってしまう。<br />
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常日頃から各案件の見通しを立てる努力をしていれば、大事故は防げるかもしれない。<br />
でも小さな事故は絶えず起き続けていて、実は見て見ぬふりをしながらこの業界は回っているように思う。<br />
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そもそも、最初に聞いたスケジュールから動かない仕事なんてほとんどない。平気で伸びるし、ずれるし、止まったかと思えば急に分裂して枝分かれしたりもする。一方で「別件が〜」みたいな言い訳が業界用語としてまかり通るように、他の仕事を一切被せず万全な状態でしか仕事を受けない人も見ない。発注側も受注側も、ある種の柔軟さを持って仕事をしていて、それで日々回っている。そのお互いの緩さは、正直とても不誠実に映ることがある。そこに仕事の質を担保できる保証はどこにもないのだ。</div>
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よく仕事をホテルやレストランの予約に例えて、勝手なスケジュール変更は、ペナルティなく予約日を変えるのと同じだと言われる。予約を受ければ当然お店は被りそうになった客を断ったり、食材を用意したり仕込んだりするわけで、それが「3日延期で。」の一声で全て無駄になったらたまったものではない。これは仕事を受注するフリーランスに対しても同じことが言える、というものだ。<br />
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基本的には分かるけれど、この例えで言うと、実は店側も結構ルーズなのを見落としがちだと思う。「別件が忙しくて〜」という言い訳は、「別の客への対応で〜」みたいな言い分で料理の質を落としたり、オーダーされた料理を何時間も待たせるのとなんら変わりがない。そんなレストランには誰だって二度と行かない。ただし客側も平気で予約やオーダー変更をバンバン飛ばすので、真摯に最高のサービスを提供し続けようとする店は精神をすり減らし続けることになる。一方が緩いと、もう一方も緩くならざるをえない。<br />
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話は変わるけれど、12月の中頃、机を購入した。「こんな机がほしい」と伝えると、「2月中旬に作り始めるので、納品が2月末になります。この値段になります。」と案内を受けた。すぐに欲しかったので少し悩んだけれど、納得した上で欲しかったのでその内容で発注と入金をした。<br />
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ごく普通の受注生産でのやりとりだと思うけれど、発注側の期待に対して、受注側がきちんと応えられる仕組みがそこにあって、なんて健全なやり取りなんだろうと少し憧れた。<br />
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1. 作りたいものの相談を受ける。<br />
2. 時間と費用の見積もりを出す。<br />
3. 納得がいけば発注を受ける。<br />
4. 約束した期日に納品する。<br />
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こんな形で仕事ができれば、理屈では無理なスケジューリングは発生せず、確かな品質のものを無理なく相手に届けることができる。相手もきちんと吟味した上で発注するし、安心して待つことができる。<br />
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広告や映像の仕事がこんなシンプルにはいかないのも分かるけれど、タスクを細分化したとき、これに極力沿っているかは意識しておきたい。特に1-2はお互いに「この内容で、この時間で、この費用で大丈夫か」と伺いを立てる行為であって、都度その姿勢を保ち続けることこそがプロジェクト進行において何より大事だと思う。そしてこの密なやりとりは、きっとキャパオーバー状態では到底かなわないものだ。<br />
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コミュニケーションの雑さが誠実な物づくりを阻んでいて、その雑さの根源にあるのは業界全体の忙しさなのに、それをどこか是としてしまっている雰囲気。そんな図式にも、すごく嫌気がする。<br />
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その一端を担うような真似は絶対にしたくないし、何より自分を頼ってくれた相手には誠意をもって丁寧に対応したい。自分と業界の現状を鑑みながら、キャパオーバーを回避しながら多くの人とお仕事していくために何ができるか、無い頭を絞って考えていきたい。</div>
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