2017-10-28

無くならない: アートとデザインの間

佐藤直樹さんの「無くならない: アートとデザインの間」を読んだ。キャッチーなタイトルに良い意味で裏切られ、節々に驚くほど共感を覚えたので、本の感想は苦手だけれど書き留めておきたい。

内容は「アートとは」「デザインとは」に対する汎用的な対比や解説というよりは、個人的にはまるで「自身の観察記」といった印象を受けて、それがとても良かった。これまで何をしてきて、何を見て何を感じ、何がしたかったのか… という経験や心境の変化をじっくり観察することを通して、今続けている「描く」という行為への理解や納得に帰結させようとするものに思えた(その道筋において、アートやデザインの社会的位置づけなどにも丁寧に触れられている)。また、業界というより彼自身にタイトルの二面性があり、その間に流れる深く暗い川の両岸を、ひたすら行き来しながら書かれているようにも見えた。かっちりとした結論に導くでもなく、悶々と悩みながら右往左往する様子がそのまま描かれていて、それ故に言葉が自然と入ってくる。

まず何十年と第一線で張っていた人が、依然これほど根源的なところで悩み続けている事実に、半ば絶望しつつも勇気付けられる。自分のやっていることに自分できちんと説明のつかない状態は、自分程度の浅はかさでは当然のこととすら思えてくる。

自分は佐藤さんと違って大した実績も経験もなければ、幼少期からの表現に対する技術も原体験も持ち合わせていない。それでも不思議と、扱われているこの仕事や業界を巡る多くのモヤモヤに共感してしまう。偶然にも自分も転校の多い人生で、それが書籍にあるような性格形成に繋がっているかは分からない。でもこういう人間は、この面倒な思考回路に今後も長く付き合うことになるのだろうな、という諦めと覚悟を持つと同時に、その成れの果ての姿としてはある種の憧れすら抱く。

自己分析への距離感や姿勢にはじまって、「肩書き」「作品」「型」「忘我」「木彫りの熊」「職能」「考えない」… など、各テーマに対する細かい共感を挙げるとキリがない (というか本で書かれている「やられた」の感覚に近い) 。でも何より、これら全体を通して様々な面から言語化しようとするもどれもしっくりこない、共通項としてぼんやり浮かび上がる「何か」への共感が一番大きく、嬉しかった。

いつも部分的にすら他人に上手く説明がつかないし、自分ですらよくわからないものについて、ここまで他人側から共感を受けるのかという驚き。それは多分「よく分からないし、誤解を生むかもしれないけれど、例えばこういうこと」を何例も繰り出していくしか無いのだろうけれど、これほど見事に浮き立たせた例もまた無いように思う。言葉にすることで失われるものへの怖さに十分敏感でありながらも、慎重に表現のアプローチを重ねる姿勢に、自分も言葉にする努力をしていこうと思った。

本の中でなされている議論の中には、まだまだ自分の知識・経験では全く及ばずについて行けない箇所も多くあったので、また数年後に読み返したいと思うけれど、今読めて本当に良かったと思える本でした。

2017-10-14

メール

仕事の連絡が、丁寧なメールのみで進む仕事が結構好きだ。実際に使ってるツールは、LINE、Facebookメッセンジャー、Slack、Skypeあたりが多いけれど、参加した時にメールベースで進む案件だと分かると、ちょっと嬉しい。別に新しいツールに抵抗がある世代でもないし、基本的にはむしろ恩恵を与っている身だけれど、それでもチャット至上主義にはなれないというか、メールの良さだって大いにあると思うのだ。

メールは儀礼的な言葉やテンプレも多いし、1行程度の内容では間抜けで送りづらいし、何かと面倒な連絡手段だとは思う。でもだからこそ、送信することに対して少し丁寧になる。チャットに比べた不便さが生む、良い重さや緊張があると思う。

まず内容に関して、チャットに比べて幾分か慎重になる。使う言葉を選ぶ。文ではなく文章としての読みやすさを加味するし、テキスト全体の形を整えるために改行位置にも気を使う。段落間の繋がりや、全体の流れも意識する。同じ内容であっても、伝え方の中に確かな気遣いを含ませることができるように思う。受け手としても、そのようなメールを受け取ると背筋が伸びるし、向き合う内容にも自然と注意が向いてくる。

あとは上手く言えないけれど、メールは人に依頼や報告をするにあたっての、適切な重みを帯びてくれる気がする。チャットの場合はどんな内容でもペラっとした裸の便箋で渡すような感覚だが、メールはその気になって書けば、厚手の紙を封して送るような重みを帯びさせることもできる。たいそうな尊敬語や修飾語を使わずとも、フォントを太字や明朝体にしなくとも、文章上の様々なディテールの積み重ねが適切な佇まいを作ってくれる気がする。

機能的な意味でも、SlackはまだしもFBやLINEには流石に無理を感じることがある。単に、あまり長い内容をやりとりするように設計されていないのだろう。特に映像のアップデートを報告する際は、 ①どんな修正要望に対して ②どのように考え試行錯誤を行い ③結果としてどのような処理をしたのか を各点に対して列挙するので必然的に長くなってしまう。あの吹き出し枠のインターフェースに、読みやすい形では書けない。

先方がモバイルで読むことも想定すると、改行を加えることでかえって読みづらくさせることがあるので、「文面」として整形しようが無い。引用返信のような仕組みもないので、丁寧に返信しようとしても上手くいかない。気遣いたくとも雑さを強いられる感じがして悔しい。メールなら段落等で上手く区切れば、項目単位の情報として分かりやすく1通にまとめられる。こちらが丁寧に書いてさえおけば、相手は項目毎に読み飛ばすか、熟読するかをそれぞれ選ぶことだってできる。

もちろんチャットベースで細かくフィードバックとアップデートのサイクルを回すことが大切な仕事もあるだろうし、社内の細々した業務連絡、ざっくばらんなブレスト、アイディアを出し合いながらの開発など、チャットが最適な場面はたくさんある。でもメールで進む案件というのは、裏を返せばスケジュールに余裕があるということだったり、せわしくなく連絡を取らずとも滞りなく進行する仕組みが存在することであったり、相手への信用のベースが高いことであったりする。

毎日せっせと取り組んでいながらも、月に数通のビシっとしたメールを交わせば進むような仕事は、互いに余裕と緊張のバランスのとれた、中々気持ちの良いものだと思う。

2017-10-06

クズ期間

「全力で頑張らねば!」と思ったときの、休みの取り方が毎度難しい。「寝る間も惜しんで体力の続く限り」とかの頑張り方はせいぜい2日間が限界だ。1週間、1ヶ月単位ではそうもいかない。モチベーションも徐々に落ちてしまう。この場合、きちんと休憩の運用を考える必要がある。

仕事をしようと予定を空けていた週末、結局だらけてしまって作業も半端になり「こんなことなら最初から休めば良かった」という経験、在宅フリーランスに限らずよくあると思う。週末の個人的な用事なら「やっちゃったなー」と反省し平日また頑張れば良いが、自分の場合、これが仕事のリスクと直結してしまう。

この「自分が動いてほしくても動かない」状態を総称して「クズ期間」と呼んでいる。これは不慮の事故として処理するには再現性の高すぎる、目の避けられない自分の現象・性質であって、仕事のスケジューリングにおいても考慮せざるを得ない。妥当に見積もる必要がある。

例えば「1週間ぶっ通しで頑張れば終わる!」と7日間分の作業を1週間で見積もってはいけない。このくらいなら誰でも直感として分かるが、ならどの程度、どのような休みを挟めば自分は安定して稼働し続けられるのか。これを正しく見積もるのは本当に難しい。もちろん人によっても違うだろうし、その時の体調にも、メンタルにも、休みの取り方にだって影響を受けてしまうだろう。

特に「やばい!今回ばかりは本当に時間がない」とか「絶妙にズレて複数案件が被ってしまった!」という非常事態(と言いつつ日常になりがち)においては、小さな予定外の作業にすらヒヤヒヤしているものだ。特に後者の場合、正常進行していた案件に対してはとっくに罪悪感で胸が潰されそうな気持ちになっている。そんな中で休んだとて心から休まらないかもしれないが、それでも自分のクズ部分は不動のものとして存在している。いつか必ず意思に反して体は動かなくなるので、たとえ正当化が適わなずとも、休まねばならない。

効率が落ちていく可能性を無視して気力で走り続けていると、いつか動かなくなったとき、原因の分からなさからの罪悪感や、自尊心へのダメージがあまりに大きい。「やっぱり頑張れなかった」みたいな落ち込み方は負の循環を生むし、そこからの復帰にもまた無駄な時間がかかる。適切な休みを挟むことでそれは回避できたことだし、トータルで進む仕事も増えるので、休息の確保は「非常事態」への対応としても正しいはずだ。

もし「n日連続稼動すると、y%ずつ作業効率が落ちる」みたいな客観的なデータがあればどんなに救われるだろうと思う。「最高パフォーマンスで1ヶ月動くには、このスケジュールで休まないといけない」という、責任感を振りかざして休むことができる。でも実際はメンタル面の大きく作用する、極めて不確実な現象で、そこに自信を持って時間を割けないのが正直なところだろう。「お急ぎの所大変申し訳ありませんが、このままだときっと自分は動けなくなり、後々のプロジェクト進行への影響も予想されますので、明日は対応できません。」が果たして言えるだろうか。

ただ、こればかりは確固たる一般論があるわけでもないし、結局は他の作業と同様に、経験則からある程度余裕をみて見積もるしかないのだろう。意思が弱いと言われれば全くもってその通りなのだが、まずは一定のクズさを受け入れて、何度も想定と反省を繰り返すことが必要なのだろうと思う。

2017-10-02

カウント

ジムでトレーニングをするとき、ざっくりと「今日の限界まで!」という決め方で望んでいる人はあまりいないと思う。マシンであれば「30kgで10回 x 3セット」とか、ランニングであれば「9km/hで30分間」とか、ある程度、数字で目標を立てておくのが普通だろう。体調によって実際の成果が上下することはあるにせよ、何かしらのゴールがないと何となく頑張りづらいものだ。

この「目標を立てる」というのは小学生の頃から慣れ親しんだ一種の自己実現方法だと思うが、それをより効果的にしているのが、遂行中の数えるという行為(進捗の客観視)にあると思う。数えるだけで、数えないよりも自分が余分に動ける。これが地味に不思議なのだ。そしてアホな仮定だけれど「数える」という発想そのものが無かったらどうなってしまっていたのだろうか、とよく思う。

例えば筋トレであれば1セット「10回」と決めたとして、もしその10という数がなかったとしたら、その手前でとっくにやめてしまっている気がする。10という数字があって、それがカウントできていることによって、たとえ7~8回のあたりで限界でも10までは頑張ろうと思える。無事に終えたとき、ああ、自分はカウントすることができて良かったなあと思う。

ランニングなんてもっと顕著だ。走り始めに「30分」と決めたら、たとえ25分の時点で限界を感じていても、なんだかんだ走り切れてしまう。その+5分は明らかに「最初30分と決めて、今25分間は既に走り終えていて、あと5分で目標達成できる」と確認する行為があっての成果だと言える。タイマーを眺めて、29:57… 29:58… 29:59… 30:00!! と切り替わった瞬間にガクッと脱力すると同時に、達成感を得られる。

この行動原理はイマイチ分からないのだけど、よく聞く「食べたもの(あるいはカロリー)を記録するだけでダイエットできる」みたいな話が、この根本にあるような気がした。ログをとることによって、客観的に一度自分を認識すると、体が勝手に頑張れるようになる。(無意識にでも)想像していた目標と、実際のズレを目の当たりにすることで、その差分を自ずと埋めようとしてしまうのではないか。

そんなことをぼんやり考えつつ、教室で出欠をとっている時にふと「日々実行していきたいあれこれ」を出席簿的に羅列した表を作ったら、ひょっとしたら効果的かもしれないと思った。縦に習慣化したいことをずらっと並べ、その日の終りに、今日できたことには◯(出席)、できなかったら/(欠席) の印をつけていく。そのログを眺めるだけで、多少それらが継続に向かう力が何かはたらくのではないか。TODOリストではなく、やったかどうかリスト。(いいからやれ)

2017-09-25

カラオケ #2

自分はよく一人でカラオケに行く。前回は苦手だった経緯を書いたけれど、どうして逆に振り切れて、欠かせない習慣として定着したのか。何となく認識しているカラオケの効能や、好きなところから、自分自身に対して探ってみる。

---

<運動と声量>
 自分は生活の上でも性格の上でも、発声する機会が少ない。声量を上げることはさらに少ない。家での日常会話は存在しないし、他の会話はレジでの「結構です」、飲食店での「ごちそうさま」、仕事電話の「了解です」くらいの単語でほぼ賄えてしまう。友人と議論で激昂することもないし、肩を叩いて激励し合うこともない。声を張る機会なんて滅多に無い。
 そんな自分が、稀にある撮影現場で「スタート!」や「カット!」の声が(ギリギリ)通るのは、カラオケのおかげだと思う。筋トレと同様に、普段出さないレンジまで声を定期的に出しておかないと、声量が日常会話のそれを上限とみなして衰退してしまう。表情筋についても同様で、使わなければいずれ頬や眉が凝り固まってしまうだろう。

<感情と表情>
 会話の少なさに加えて、自分は感情のレンジがおそらく人より狭い。ゆえに、表情にも乏しい。でも歌うときには、自分よりもずっと感情豊かな人たちの言葉を借りて、表情豊かに喜んだり、怒ったり、夢を叫んだりする。暴力的なラップを歌う時、熱いバラードを歌う時、普段とはまるで違う言葉遣いで、話さないような速さで、普段全く使うことのない筋肉を酷使する。大げさに言うともはや外身だけが自分で、他人が憑依した状態に近い。
 不思議なことに明るい顔で歌うだけで、歌声も驚くほど明るい印象になる。逆も然りだ。表情の変化は音程やその他様々な要素となって、歌声に確かに影響している。だから全力で表情をつくる。すると自分も、普段あまり持たない感情を抱くことに気付く。「楽しいから笑うのではなく 笑うから楽しくなる」とはYUKIの歌詞の一節だが、表情から感情にはたらきかけることは可能なのだ。

<ストレス発散>
仕事に大したストレスはないけれど、大声を出すのは単純に楽しい。自律神経にも良いと聞く。

<自己検診>
 前回の記事で書いたようにいくら初期条件を注意して揃えても、うまく歌えないことがある。明るさが足りない、息が続かなかい、といった比較的分かりやすい状態もあるし、言葉にできないような妙な印象を受けるだけのときもある。そういうのは、自分の体か心がイレギュラーな時だ。歌うと、それまで自分が気付かなかったような自身の些細な変化に気付くことができる。風邪の引きはじめから心の小さな凹みまで、歌声には如実に反映されるもので、カラオケはちょっとした体調チェックも兼ねることができる。

<身体的学習>
 これは上で挙げたような心身の健康のためというよりは、もう少しプラスアルファの楽しさについて。
 自分は職業柄、知識を通して体系立てて「頭から」学習する機会は多くても、その逆は少ない。歌は当たり前だけれどダンスとかと同じ「身体から」覚えるもので、その学習曲線・成長曲線が全く違うように感じられ、それが新鮮でおもしろい。
 特にそれを実感するのは、経験則として一番良い歌声が出るのは決まって「何も考えていない時」であるということ。「もっと息吸わなきゃ」「頭の後ろから声を出すように」「口が開いてない」「喉からではなく腹から」…など色々思案すればするほど歪みが生じ、上手くいかない。逆に何も考えず、ただ歌うことに集中できている時は、全てが自然と正しいバランスで保たれていて、声質も良いし、歌っていて楽しい。歌う、という極めて繊細な全身運動において、左脳的な細々とした理屈がいかに無力かを痛感する。

 なんだか宗教臭いけれど、このような感覚先行で意図して自分の身体をコントロールできたことがなかったので、初めは衝撃だった。頭で上手くやろうとするほどに逆にはたらいてしまう感じが、最初ちっとも楽しめなかった最大の要因だったのかもしれない。今はむしろ、あえてボイトレのメソッド等はあまり調べずに、とことん身体で試し、そこで感じる「うまくいった!」という小さな成功体験のみを細かく捉えるようにしている。

 身体的なスキルは「できた!」ときの喜びが本当に大きい。喜びがリアルタイムにフィードバックされて、すぐさま声に反映されていくスピード感も、また楽しい。
 特に音域については分かりやすい。最初はちっとも出なかった音が、か細い声でも初めて出た時、ちょっと無理してでも前の音から繋がった時、最終的に何も考えずに自然と出るようになった時… と同じ曲の同じ音に対して、何度も嬉しいタイミングがやってくる。それが歌っている中に自覚できると、その瞬間から一気に声に張りが出る。この繰り返しが続くと、もう自然と歌うのが止められなくなってしまう。

---

カラオケに何年も通いながら、ぼんやり考えていたことを初めてテキストとして書き出したら少しスッキリした。今は以前ほど人と一緒に行くカラオケに強い抵抗感は無いけれど、自分にとってのカラオケは心身を整える調律のようなもので、人との筋トレや瞑想が想像しづらいように、やっぱり一人がしっくりくる。
(そもそも、こんな面倒なカラオケは相手が御免だろうけど)

今の働き方や考え方に合致した貴重な習慣なので、これからも楽しく続けて、捉え方の変化を観察したい。

2017-09-23

カラオケ #1

自分はよく一人でカラオケに行く。行き始めたのは高校の終わり頃からだったように思うので、もう始めて10年弱になる。生活も仕事も環境が頻繁に変わっていたせいで、たまに期間が空いたりしたけれど、なんだかんだ習慣として戻ってくる。それは何年か疎遠でもまたすぐにくだらない会話を再開できる友人のようで、これは相当な腐れ縁になるぞ、と最近実感として分かってきた。

でも元々カラオケは大嫌いで、そういう状況になりそうな時は全力で避けていた。というのも小中学校の頃の合唱は大好きだったのに、いざあの部屋、友人の前で、J-POPの類を歌おうとすると勝手が全く異なって、ちっとも上手く歌えなかったからだ。合唱の頃に習った口の開き方や、呼吸法、声の響かせ方など、全てが無意味に思えた (実際は活かせるのだろうけど、当時の自分にとっては)。一方で上手に歌う友達は全くそんなこと気にしていない風だったし、何より楽しそうだった。

好きだった「歌う」という行為が楽しめないことがとにかく悔しくて、そこに立ち向かうべく通い始めたのがきっかけだった。ただ、最初の数年間はちっとも楽しくなくて、いつも絶望的な気持ちで部屋を後にしていた。まず息が持たないし、高さも足りないし、リズムも取れない。自分の歌えてなさを自分で痛いほど自覚して、ひたすら凹む。頑張ってリキむと喉が潰れて痛くなり、さらに声はひどくなり、1曲すらも完唱できない。なんでこんなに歌えないのか分からない。でもまた歌う。また曲を入れてマイクを持って、また凹む。それを繰り返す。「ストレス発散」というイメージとは真逆のヒトカラに、悔しくて、何度も通った。

そのうち10回に1回くらい、「今日はちょっと歌えた」と実感できる日ができた。男性ボーカル曲をあきらめて、女性ボーカル曲のオクターブを下げて歌ってみたら、音はいくらかとれるようになった。あとは低音でそこまで音程の上下しない、ラップであれば歌えた。ラップはあの速さで自分の口が動き、同期すること自体に楽しさを得られた。歌った分だけぴったり合ってくるので、練習の甲斐もあった。合唱の基本は一旦忘れて、話すことの延長のつもりで、もっと楽に歌うようにした。そうやって少しずつ、当初まるで歌う気の無かった曲で練習していたら、カラオケそのものが楽しかった回数は増えた。

それでもやっぱり絶望する日の方が多かった。調子の落差が激しかったし、一旦喉がダメになるとその日は部屋を出るまで復調しなかった。初期条件を揃えるための準備運動が必要なのだと思い、色々調べた。息を限界まで吸って細く長く出し切る横隔膜の体操、「ラ・ガ」を連続して発生する喉を広げる運動、「い」の発音を維持したまま徐々に「う」の形へ唇をシフトさせていく口周りの運動など、違う部位に対していくつかの準備運動すれば身体の初期条件がある程度整うのが分かった。あとは喉に影響しないドリンクを選び、無理の無いスピードで徐々に音域が上がっていく曲を、最初に歌う曲として固定しておく。これでだいぶ「楽しかった」と思える日の確率が上がっていった。

楽しめるようになってくると、より上手く歌いたくなった。楽器用のマウスピースを用いた呼吸のトレーニングや、布団の中でのボイトレなど、余波がカラオケルームの外にまで及んできた。自分にとって最終手段だったけど、iPhoneで録音して、時間をおいて聴き直したりした(ひどく自分の声に抵抗があったので)。実際ひどくショックを受けたし、歌いながら聴くよりもはるかにヘタだったけれど、これが人前に出る前で良かったとしみじみ思った。まだ音程のズレはカラオケ筐体の機能である程度分かるけれど、リキんでいて全くスムーズじゃないとか、何より全然楽しそうじゃないとか、そういうのは録らないと全然気づかないことだった。楽しそうな曲は、楽しそうな顔で歌う必要があるとわかり、以後は部屋の反射物を探して鏡代わりに表情や口の広げ方も見るようになった。

そんなこんなを続けて、今はカラオケで楽しくないことがほぼなくなった。

数年して慣れてきたあるとき、ふと始めた頃にまるで歌えなかった男性ボーカル曲を入れてみて、音が自然に歌声として自分の口からでたときは、言葉にできない感動があった。歌っていて信じられない気持ちになった。もっとも学生時代の友達は特に苦労もなく歌っていたものだったし、一般人からはまだ程遠いのだろうけれど、それでもこんなに嬉しいことはなかった。

カラオケが楽しくなってからの話を、近々続きで書きます。