2023-04-10

いつもありがとうございます

 TLで「少しでも顔を覚えられてしまったが最後、もうその店には行かなくなってしまう」という旨の投稿が、凄まじい数の同意を集めているのをよく見る。誰でもない自分、としての居場所にこそ価値があったのに、それがなくなってしまうということなのだろう。身近な人にもそういう人は多いし、自分も多分に人見知りだし、分からなくはない。

一方で、(海外のショート動画だが) 最近のカフェ店員などでよく見られる、明らかに鼻につく声で相手に無関心・無機質になっている話し方を、誇張して皮肉っているような投稿も目にする。これは賛否大きな議論を呼んでいて、その血の通わない現状を憂うのと同じくらい、仕事で必要以上の愛想を求められるのもおかしいという声も多い。

でも平均して日本人の方がコミュニケーションに求める温度が低めとはいえ、究極的には冒頭に挙げた態度の行き着く先が無機質な世界なのだと思う。何より悲しいのは、そのような投稿を見た店員側が「(良かれと思って伝えていたが) 気にされる方も多いので注意しよう…」と萎縮してしまうことだ。もちろん嫌な人がいるのも分かる。でもやたらとプライベートな質問をしてきたり、世間話で時間を取ろうとするのならまだしも、店員が「いつもありがとうございます」と素直に利用の感謝を伝えることすらできない世の中の、なんて心苦しいことか。

客側の求めることが完全な匿名性であるとすれば、たとえ店員にとっては常連として見知った「知人」であったとしても「他人」として振る舞うことが求められる。でも「他人のフリをする」という行為は、ある意味で必要以上に愛想よくするのと同等かそれ以上の負担を強いる気遣いに思えてしまう。そこで店員が自らの心を守ろうとするならば、もう機械としての態度に振ってしまうのも頷けるが、そんな判断が累積した世の中が心地良いと自分には思えない。

ただでさえ「客」を過剰に気遣う日本で、そんなズケズケと踏み込んでくる店員はそもそも滅多にいない。その上で「いつもありがとうございます」の「いつも」すらを外せというのは、本当に店員の機械化の最後の一押しを自ら引き起こしている気がしてならない。普段から相手の心を否定しておいて、旅先や移住先に人々の暖かさを夢見るような人には、どうか一度我が身を省みてほしいと思ってしまう。(プライベート以外、一切心を通わせる必要がないという人もいるのだろうけど)

自分も愛想は悪いし全然会話に乗れないし決して店員にとって心地良い客だとは思わないが、常連として覚えてくれていることなど、業務を超えて示してくれる好意については極力前向きな態度でありたい(元々嬉しい方ではあるけど)。 特に自分が日頃から世話になっている店なのであれば、店側にとって心地良い状態にほんの僅かでも寄せたって良いのではないか。店員が常日頃こちらの距離感を推し量ってくれるように、こちらから推し量る姿勢もあって然るべきではないか。

2023-02-14

部活を頑張る子

昔から「部活を頑張る子は勉強も頑張る」とよく言われる。部活で忙しいはずのあの子に限って成績も優秀で、勉強にも手を抜かず頑張っている、というやつだ。それと比べて、何もせず暇を持て余しているのにお前ときたら… とこちらに飛び火する所までもがセットで思い出されるが、当時の彼らに抱いたのと似たような感情が、今再び、周りの育児世代を眺めていると蘇ってくる。

自分は年々歪みを増す自身のハンドリングにすら手を焼く一方だというのに、育児や家庭行事と並行して尚、文化的・社会的に目覚ましい活躍を見せる彼らは一体どう日々をやりくりしているのか。どんな道理で時間や気力を捻出しているのか。もう全く、皆目、見当がつかない。尊敬しているのはもちろん、あまりに想像が及ばなさすぎて、感覚としては摩訶不思議と表す方が近い。

でも自分自身でも、(ごく一時的に) 似たような不思議を経験した覚えがある。出張で忙しく、移動の合間を縫って仕事を進めた日の方が、何の予定もなく一日フルで作業に使える日よりも累計して進捗があったりするのだ。その実態に気付くと後者の自分は落ち込むわけだけれど、ふと冒頭の定説を思い出して、これはむしろ自然の道理で、仕方なのないことなのでは…?という屁理屈に逃げてしまう。

例えば忙しいとまとまった時間が取れないので、隙間時間でも成果が出るようにタスクを細分化したり、短い時間単位で集中せざるを得なくなる。結果としてポモドーロ・テクニックなんかで強制するようなタイムマネジメントが、自然となされているのではないか、という仮説。(それ以前に「時間がない」という現実から生まれる心理的な緊張感そのものが、あらゆる余念や煩悩を押し殺し、時間の密度を上げているのでは… という気もするが) よほどの忙しさでない限り、変に時間を作るより、むしろ予定を作って忙しさを上げた方が全体の生産高が上がるという状況も、わりとあることだと思う。

きっとどこかに「健康を保ちつつ生産性がピークになる忙しさ」というポイントが存在するのだろうけど、それは基本的に負荷のかかった状態なわけで、果たして継続してそんな状態でいたいかというと疑問が残る。特に自分は余裕の無さに対するテンパりラインが低く、それが分かりやすく周囲への迷惑として波及してしまうので、適度にぼんやりとできるくらいが丁度良いのだろうという自覚もある。とはいえタイムライン等で皆の常人ならぬ頑張りに日々触れ続けていると、じわじわと自尊心がしょげていくのを感じるが、そもそも他人の生産性にあてられて一喜一憂するのが虚しい。もっと超然としたい。