2023-09-01

引越

郊外から都内へ戻ることになった。

20代の頃は都内を10回以上引越す引越狂いだったけれど、30代に入ったここ数年、少し郊外へと足を伸ばしてみた。これまで一度も賃貸契約の更新を迎えないまま点々としていたのに、今回は二度目の契約更新も差し迫るほどになっていて、流石にちょっと引き剥がすのに苦労する程度には根が張られた感覚があった。

移り住んだ当初は、さらに都心から離れるための練習台にしようとしていた節があったものの、結局戻ることになったのでその観点では失敗といえる。けれどこんな自分でも、いざとなればスーパーへ出向き食材を買い調理をするに至るのだと分かり、憧れていた車生活はやっぱり最高に楽しいということも分かったので、収穫がゼロというわけでもない。都心から離れても、まあ何とかなるのだと具体的な想像が進んだ。

ちょうど世間がコロナ禍になったのも移住と重なっていたので、立地の利便性よりも居住空間に家賃を全振りしていたのもラッキーだった。世間がオンラインベースになり、仕事もほぼ在宅だったけれど、適度な部屋数と平米数のお陰で家で息が詰まるということがあまりなかった。たとえ機能的に困らずとも、息をするための空間というのは在宅時間に比例して必要らしい。

都内に戻るとやっぱり何もかも便利だなと思うし、ごく普通の駅前の人や店の密度につい胸が踊ってしまう。その辺の通りや街角単位のスケールで、当然のように文化や歴史が積み重なっているのが感じられ、逆にこの密度が普通になると日本の大半の場所が空虚に思えてしまいそうだけれど、それはそれでどうなのか。

都内へ戻ると同時にシェアオフィスにも入ることになり、ひたすら家に籠もっていたここ数年を思うと、単なる生活圏の移動以上の転機になりそうだと感じる。外に出て人と会い、もう少し身も心も外へ開いていきたい。コロナ禍開けの世間にもそんな空気を感じる。


2023-08-06

作業の比重

道筋さえ見えていれば1日とかからないはずの仕事が、色々悩んでしまって1週間かけても終わらないと、申し訳無さと不甲斐なさで気持ちが日に日に沈んでいく。そういう場合、それは単なる作業ではなく、道筋を見つける事自体が仕事であると認識を改める必要がある。でも自分の受け取る仕事の対価が、作業自体よりも悩むことの方に比重があると認めることが、実は結構難しいことなのではないかと感じる。

--

「デザイナー」という職業を思うと、想像する仕事は作業というより思考そのものだ。ビジュアルデザインであれば、受け取ったお題を整理したり膨らませたり、モチーフや造形を検討したり。もっと広義のそれであれば、新たな軸や視点を探したり。たとえ最終的な納品物がロゴの形ひとつであったとしても、その人の知見を踏まえた思考そのものに対価を払うイメージがある。名詞的に使われる「クリエイティブ」とも言い換えられる気がする。

一方で「映像制作業」、特に「CG制作業」を思うと、わりと想像する仕事はソフトウェアのオペレーションだったり、データ制作業務である。もちろん企画や監督がメインの人たちもいるけれど、職種全体のイメージとしてはせっせと撮影したり、編集したり、モデリングしたり、キーフレームを打ったりして、データとしての納品物を形作っていくイメージが強い。個人的にデジタルの大工・職人だと思っている節もある。

もちろん大抵の仕事はどちらか一方ではなく、あくまで比重が異なるという話なのだけど、その比重に職種のイメージを引っ張られるところがある。ひどく乱暴な言い方をすると、例えば同じ撮影でも映像カメラマンよりもスチールカメラマンの方が… あるいは同じCGでも3Dよりも2Dの方が… 世間一般から「作業」よりも「クリエイティブ」を求められる傾向があるように思う。(※本当に乱暴な言い方をしています)

--

上を半端にかけ合わせた「映像デザイナー」と名乗っている自分は、「考えること」と「作業すること」の割合が半々くらいの仕事を頂くことが多い。でもどこかで、「作業」の側によって対価を正当化していた節があったのだなと思う。特に見積もりを作るとき、世間一般に倣って◯人日的な工数として作業費を算出するけれど、これは自分がソフトウェアを操作する手間と時間を想像している。

ただ、技術や効率が上がるほど、同じ仕事であっても対価の比重が純粋な「作業」から「悩むこと」や「視座の提供」に傾いてくる。あるいは仕事のトンマナとして、ミニマルでシンプルなものが増えても結果として同じような状況になる。すると見積もりは「作業時間分頂きます!」の意味から少し離れて「私の知見から考えうるもの、あるいは悶々と悩み試行錯誤することには価値があるのです…」という主張になってしまい、何を今更と言われそうだが、これが結構苦しい。

極端な例として、仮に1案作ってそれで一応形になったけれど、不安になって2案目、3案目… も続けて作るとする。結果として1案目が良かったと確認するだけの時間を使ってしまったとき、それは質を担保するために必要な作業だったとも言えるけれど、個人的には最初からゴールに行けない未熟さを謝りたくなる。そのプロセスは個人的な勉強代であって、逆に対価を頂くということに後ろめたさがある。特に大工側のつもりで見積もりを立て参加している仕事だと、自分のよくわからない悩みで工期が延びていることに自分自身が耐えられなくなってしまう。

制作系アプリの広告で「手間が減ることでクリエイティブに集中できます!」みたいな常套句があるが、個人的には仕事の純粋な作業部分にこそ救われている。仮に想像できた瞬間には完成している、という未来が来たときにには、きっと自分の純粋なクリエイティブ成分のみに値付けせざるを得ないことになる。真っ先にAIに駆逐される人種の発想だとは思うけど、いや末恐ろしい。


---

※補足しておくと、デジタル大工だって大いに創意工夫に溢れたクリエイティブな職業だと思っている。大工が木材を知り工具の扱いを熟知するように、デジタルデータの特性や各種ツールに精通している。プログラマーに対しても、要件定義されたお題に対して、その構造化や堅牢性に情熱を注ぐという意味で似たイメージを持っている。近年、分業制3DCGの職種がやたらと「〇〇アーティスト」と言い換えられるようになったのは、(本当に作家性の求められる役職もあるが) 単なるオペレーター的なイメージ払拭の意図もあるのかなと想像する。そしてFlash職人とは意味的にも心情的にも言い得て妙だったなと今になって思う。

※ 特に今の時代、最初から「作業量」のみで価値を正当化するのが難しい、写真やグラフィックを生業にする人は本当に尊敬の念に堪えない。のだけど、「作業楽そうですね」というニュアンスにならないようにそれを上手く伝えるのがいつも難しい。映像より純粋な手数が遥かに多いグラフィック仕事も無数にあるので、これも一概には言えないけれど...

2023-04-10

いつもありがとうございます

「顔を覚えられてしまったが最後、もうその店には行かなくなってしまう」という旨の投稿が、凄まじい数の同意を集めているのを見るたびに少し胸が痛む。誰でもない自分、としての居場所にこそ価値があったのに、その限りではくなってしまうのだろう。身近な人にもそういう人は多いし、自分自身も多分に人見知りだし、その気持ちは分からなくはない。

一方で、(主に海外のショート系動画で) 最近のカフェ店員特有の、客に対して明らかに無機質・無関心な、鼻につく声での接客を誇張して皮肉っているような投稿が、凄まじい議論を呼んでいるのもよく目にする。全く血の通っていない店員の態度に「昔はこうではなかった」と嘆く人もいれば、「仕事で必要以上の愛想を求められるのもおかしい」という人も一定数いた。

個人的には、客側の「店員に一切覚えられたくない」というささやかな拒絶的態度の行き着く先が、店員側の「客を一切人として扱わない」という無機質な世界ではないかと思うのだ。

もし客側の求めることが完全な匿名性であるとすれば、たとえ店員にとっては常連として見知った「知人」であったとしても「他人」として振る舞うことが求められる。でも「他人のフリをする」という行為は、ある意味で必要以上に愛想よくするのと同等か、それ以上の負担を強いてしまう気がしてならない。そこで店員が自らの心を守ろうとするならば、もう客を人としては接さずに、機械としての態度に振り切ってしまうのは自然な防衛反応と言える。

個人的に心配なのは、冒頭のような投稿が賛同を集めているのを見た店員側が「(良かれと思って伝えていたが) 気にされる方も多いので注意しなければ。。」と更に萎縮してしまうことだ。ただでさえ「客」を過剰に気遣う今の日本で、そんなズケズケと踏み込んでくる店員はそもそも滅多にいない。やたらと馴れ馴れしくもしてこない。その上で「いつもありがとうございます」の「いつも」すらを外せというのは、本当に店員の機械化の最後の一押しを、自らの手で引き起こしている気がしてしまう。店員が客に日頃の謝意すら伝えることすらできない世の中の、なんと息苦しいことか。

特に都会では普段から相手の心を否定しておいて、いざ旅先や移住先では人々の暖かさを求めるような態度を見ると辟易してしまう。どうか一度我が身を省みてほしい。

自分も愛想は悪いし、会話には全然上手く乗れないし、決して店員にとって心地良い客だとは思わないが、それでも業務を超えて示して頂く好意については極力前向きな態度でありたい。 特に自分が日頃から世話になっている店であれば、店側にとって心地良い状態にほんの僅かでも寄せたって良いのではないか。店員が常日頃こちらの距離感を推し量ってくれるように、こちらから推し量る姿勢もあって然るべきではないか。

2023-02-14

部活を頑張る子

昔から「部活を頑張る子は勉強も頑張る」とよく言われる。部活で忙しいはずのあの子に限って成績も優秀で、勉強にも手を抜かず頑張っている、というやつだ。それと比べて、何もせず暇を持て余しているのにお前ときたら… とこちらに飛び火する所までもがセットで思い出されるが、当時の彼らに抱いたのと似たような感情が、今再び、周りの育児世代を眺めていると蘇ってくる。

自分は年々歪みを増す自身のハンドリングにすら手を焼く一方だというのに、育児や家庭行事と並行して尚、文化的・社会的に目覚ましい活躍を見せる彼らは一体どう日々をやりくりしているのか。どんな道理で時間や気力を捻出しているのか。もう全く、皆目、見当がつかない。尊敬しているのはもちろん、あまりに想像が及ばなさすぎて、感覚としては摩訶不思議と表す方が近い。

でも自分自身でも、(ごく一時的に) 似たような不思議を経験した覚えがある。出張で忙しく、移動の合間を縫って仕事を進めた日の方が、何の予定もなく一日フルで作業に使える日よりも累計して進捗があったりするのだ。その実態に気付くと後者の自分は落ち込むわけだけれど、ふと冒頭の定説を思い出して、これはむしろ自然の道理で、仕方なのないことなのでは…?という屁理屈に逃げてしまう。

例えば忙しいとまとまった時間が取れないので、隙間時間でも成果が出るようにタスクを細分化したり、短い時間単位で集中せざるを得なくなる。結果としてポモドーロ・テクニックなんかで強制するようなタイムマネジメントが、自然となされているのではないか、という仮説。(それ以前に「時間がない」という現実から生まれる心理的な緊張感そのものが、あらゆる余念や煩悩を押し殺し、時間の密度を上げているのでは… という気もするが) よほどの忙しさでない限り、変に時間を作るより、むしろ予定を作って忙しさを上げた方が全体の生産高が上がるという状況も、わりとあることだと思う。

きっとどこかに「健康を保ちつつ生産性がピークになる忙しさ」というポイントが存在するのだろうけど、それは基本的に負荷のかかった状態なわけで、果たして継続してそんな状態でいたいかというと疑問が残る。特に自分は余裕の無さに対するテンパりラインが低く、それが分かりやすく周囲への迷惑として波及してしまうので、適度にぼんやりとできるくらいが丁度良いのだろうという自覚もある。とはいえタイムライン等で皆の常人ならぬ頑張りに日々触れ続けていると、じわじわと自尊心がしょげていくのを感じるが、そもそも他人の生産性にあてられて一喜一憂するのが虚しい。もっと超然としたい。