2022-10-05

文脈で食べてる

最近のAIアートへの賛否を眺めていると、昔からよく論点になる「手描きだからすごいのか」や「作り手としてメイキングはどこまで見せるべきか」の話を連想してしまう。人が作品を評価するとき、その文脈や制作背景(コンテキスト) にどの程度影響を受けているのか、あるいはどの程度加味するべきなのかという話と、これも実は近いところにある気がする。

かつて自分は、作品は作品それのみで純粋に評価されるべきだと信じていた。結果が全てであり、「こう作られたからすごい」みたいなことは言い訳がましく格好悪いと。しかし一方で、好きな作品であるほど周辺知識を「掘る」習慣も当然のように身についていた。メイキングや作者の過去作品・歴史的背景などを踏まえることで初めて理解が深まり、それでこそ「きちんと鑑賞する」態度たりえるのだという認識も同時にあった。世間的に「そんな事も知らずに作品を語るなんて…」みたいに揶揄されるのも分野を問わず、よくあることだと思う。

ただ、好きな作品の背景について掘り調べ、さらに好きになっていく… というのは言い換えれば、自らコンテキスト摂取に奔走することで当初の評価を歪ませていくことでもある。「作品は結果のみで評価されるべき」と信じる一方で、矛盾した行為に勤しんでいたことに自覚的になったのは、恥ずかしながらわりと最近のことだった。

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数週間前、AIアートが絵のコンテストで優勝したという記事があり、受賞者に避難が集まっているのを見た。そこで興味深かったのは「作者は数万枚の出力をして、数週間の選別をした上で、レタッチ作業も行った」という情報が付与されることで「なんだ、そうだったのか」と一定の評価を回復していることだった。極端に言えば「頑張ったかどうか」というコンテキストのみで世間からの評価が反転している。評価にあたっての文脈と結果の主従が逆転しているようにすら感じられた。

mimicという (作家が自身の絵をアップすることで模倣絵を生成する) サービスが出たときにも避難が殺到していたが「開発者だって長年の努力で得たスキルで頑張って作ったのだから」という方向で理解を示そうという人が多かったのも印象的だった。やはり「頑張ったかどうか」は短絡的ではあるが、侮れない評価軸らしい。

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1クリックで生成できるAIアートと対峙すると、作品の評価にあたってコンテキストをどう捉えているか、を露骨に問われる気持ちになる。表面的には人の努力の結晶と変わらない成果物でありながら、実際には数秒の思いつきとプロンプト入力以上の制作背景が存在しないものを、果たして自分はどう評価するのか。もし自らの評価のモノサシを正しく認識できていないと、何故か今まで評価してきたはずのものができない… という自己矛盾を抱えてしまうことになる。結果として「すごいけど何か嫌だ」とか「まだ細部が未熟だから人間の方がすごい」という煮えきらない認知的不協和の解消が、反応として表出してしまう。この感情的な折り合いの悪さが、AIアートへの拒絶反応を引き起こす一因にもなっているように思える。

例えば同じAIアートであっても、「独自のモデルを育てるために学習データを10年かけて手作業で作りました」のような経緯があれば、疑念を抱えることなく多くの人が感動を寄せるのだろう。同じくコンピューターを用いて生成するジェネラティブアートも、たとえコード自体が理解されなかったとしても、コーディングしている人間の努力はそこにあるという理解から、評価されやすい側面がある気がする。

もちろん広告全般や商業デザインなど、初見で伝わらないと意味をなさない制作物において、メイキングを見せびらかすことで努力を正当化するのは間違っている。でもアート作品においては、作家がその過程や苦労を自ら開示することを過度に避難する必要もないだろう。鑑賞者に対する向き合い方としては、ある意味、誠実で優しい態度とすら言えると思う。

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自分にしたって、思えばほぼ文脈で食べているようなものではないか… と思うことがある。プロとしての腕一本でやれていると思いたいところだが、もし純粋な映像の技量で上から並べて上から順に発注する仕組みがあったのなら、三日で廃業待ったなしである。それでも仕事として繋がっているのは、(想像の域は出ないが) これまでの関係性や、仕事への向き合い方、趣味嗜好、スケジュール感覚など、その周辺部分を含めた評価を少なからず感じる。これは機械化とは相容れない、やりがいを覚える所でもあり、本当にありがたいことだと思っている。(こと人間性やコミュニケーションには大いに問題があるので、むしろ純粋な技量側で埋め合わせたい気持ちではいるけど、中々叶わない) これは一方で、映像のスキルと同等かそれ以上に、人として成長しないといつか本当に食いっぱぐれるだろうな、という緊張感にも繋がっている。

結局人間なので、人が楽して作ったものを素直に評価できないのも、背後に人の努力や営みを求めてしまうのも、ごく自然なことではないだろうか。AIアートをはじめ「頑張っていない」成果物を評価できないという自分に対して、個人的には素直でありたいと思う。


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※これはAIアートをきっかけに感じた自身のモヤりを回想・咀嚼したもので、AIアート全体の問題を俯瞰したわけではない。普通に多面的すぎて難しい問題だと感じる。

※文脈による評価を肯定する一方で、主に仕事の場で、評価が文脈や言葉の側に偏ってしまうことで引き起こされる悲劇もまたあると感じるが、また別の機会に分けたい。

2022-09-17

プロシージャルの枠

作画系アニメーターの仕事を見ていると、まるで動かす前から「各フレームの正解の絵」が概ね見えているように思えて、これにはどうやっても敵わないなと思う。自分のように、まずは大枠の仕組みを作って動かしてみて、チマチマとパラメータを調整していてはまず到達できない次元の動き、心地良さだと感じる。

では逆にチマチマとパラメータ調整を繰り返すことで得られる動きの妙みたいなものもあるのだろうかと前向きに考えてみるが、あったとしても何となくヌメっとした質感で、あまり心地の良い類ではない気がする。プロシージャルな仕組みでの調整は平滑化の方向に進みやすく、イージングカーブをキツくする程度の調整はあれど、ダイナミックな構造変化には中々振りづらい。勿論、できるだけ構造自体も変化しうる構造作りを心がけるけど、必ずどこかで一定のフレームは生まれてしまう。

トライ&エラーのハードルを下げて、試行錯誤の自由を得られることがプロシージャルの良さであるはずが、よほど意思を持って踏み外さない限りは現状ベースの調整から抜け出せなくなってしまう。目の前の結果を、フラットに1枚の画像として見ればさっと試せたはずのアイデアが、その骨格や成り立ちを意識するせいで遠のいてしまうことは多い。これはむしろ不自由な状況と言える。

最近この思考の枠に囚われまいとやや過敏気味になっている。結局のところ、どんな仕組みで、どんな苦労を経て生まれたのか、一切考えることなく純粋に結果を見て躊躇なく壊すということに尽きると思うが、度を越すと仕事が一向に進まなくなる。

たとえプロシージャルであっても、もう少し「正解」が頭で思い描けるようになることで取りうるアプローチを変えられるだろうとは思う。さらにはプロシージャルであるからこそ、まるで思い浮かばなかった思考の外が生み出される可能性もあるわけで、そんな余地をぼんやりと孕んだような仕組みが組めるようになりたい。

(字余りになったツイート下書き複数個をまとめた)

2022-06-15

サブディビジョン・モデリング

サブディビジョン・サーフェスと呼ばれる、曲面を表現する仕組みがある。端的に説明するとカクカクしたポリゴンを滑らかに分割・補間する仕組みなのだが、その適用を前提としたモデリングをサブディビジョン・モデリングと呼んだりもする。柔らかいフォルムの生物からソリッドなプロダクト系まで、モデリングでは幅広く用いられる手法の一つだ。

これは通常のモデリングと比べて多少面倒な作法が要求されるのだが、近年はいくつかの理由から「ほぼ必須スキル」であった以前とは若干状況が変わってきたように思う。自分の想像する、主だった要因は以下のあたりだ。

  • 平均的なマシンパワーが上がり、後工程での細分化に頼らずとも最初から高いポリゴン数のままモデリングからフィニッシュまで行えるようになった。
  • ポリゴンを扱う側のアルゴリズムが改善され、多少煩雑なメッシュであってもそこに二次的な編集を施したり、滑らかな表示がエラーなく行えるようになった。
  • リメッシャーと呼ばれる、どんなメッシュでも「人間がサブディビジョン・モデリングしたかのようなメッシュ」へと自動で変換するような仕組みが生まれ、その完成度が恐ろしく上がってきた。
  • ボリュームモデリングの台頭により、本来SDSしか選択肢のなかった「複雑で有機的な曲面」をモデリングする際の選択肢が増えた。

これらの状況が相まって、ジャンルによってはよほどの精度が求められない限りは不要なスキルになったとも言え、その必要性についての議論を自分の観測範囲でも度々目にする。

どうもセンシティブな話題なようで、普段穏便なレジェンドたちがこの話題になると急に語気を荒げた発言に出たりするので焦る。ただ、恐らくは長い時間と経験を費やして身につけたスキルや「業界的に常識・最低限」とされていた作法を新参者に無下に扱われることに加え、自動化の波が迫る状況に不安を抱くのは想像に難くない。

自分のモデリングスキルは全く大したことないけれど、それでも多少なりとも頑張って得たスキルの希少性が日々下がっていく状況に寂しさを覚える側の人間ではあると思う。一方で技術が進み、参入障壁が下がり、取りうるツールの選択肢が増えることは素直に喜ばしい状況でもある。(自分も頻繁にリメッシャーの世話になるので)

それは別として、負け惜しみのようにしか見えないと思うが、自分がSDSモデリングを愛してやまないポイントを下に並べてみる。自分は仕事でモデリング業務が発生することはほぼないので、そもそもが趣味嗜好的な視点になってしまうが、SDSモデリングは実用面を差し置いても、その作業自体がとても楽しいのだ。

  1. モデリング対象となる形に対して、大まかなシルエットからディテールへ、形を捉える目の粒度を少しずつ細かくして、段階的に形に反映していく必要がある。たとえ細部を整えている最中に、見えていなかった全体の起伏や傾斜を見つけたとしても基本的にはやり直しが効かず、そのステップまで戻る必要がある。そこに程よい緊張感が生まれる。
  2. エッジの流れの根幹となる線を見つけられると、無理なくその先のポリゴンの分割が進む。メッシュ全体の形も説得力を帯びてくる。自分が何となく好きだった形の、骨格を掘り出していくような楽しさがある。作業効率的にも、エッジフローが上手く作れると適切なループ選択が効くので、同時に効率化も図ることができる。
  3. 一見後戻りの効かない、地道で破壊的に見える作業の中にも、非破壊的に進めるテクニックがいくつか存在する。例えば第一段階で作った外形のエッジをできる限り触らないようにエッジの追加を進めることで、あとから面取り具合を調整したり、取り除いて一段回戻ることもできる。機能としては用意されていないが、データ作りの工夫次第でその行き来ができる。
  4. 作法として、基本的に全てのポリゴンを四角形で構成することが良しとされる(各辺を二分割することで同じ四角形の集合となるため)。全体のエッジの流れを保ちながら、いかに三角形や五角形を作らないように線を繋ぎ替えるか、というのは脳にとって程よい負荷のようで、小さなパズルゲームを解き続けてるような心地よさがある。慣れてくると周囲のポリゴンの並びで、何となく問題となっているポリゴンをどう切れば良いのか、蓄積されたパターンから引き出せるようになる。そして全ての可能性を吟味した上で、あえてn角形を配するときの楽しさもまたひとしおである。(一回以上の細分化で四角形になることを見越す)
  5. 特に画像を敷いての作業では、Illustratorでのトレース作業で得られる楽しさと似ている。元の線をゆっくりなぞる気持ち良さや、最小限のアンカーポイントで形を捉えることができたときと同じ満足感がある。ただし曲線のハンドルにあたる概念はないため、点を折ったり左右を不均等にしたりといった調整操作のない分、よりストイックさが増す。面の分割のみをヒンティングしていくことで、ごくシンプルなアルゴリズムに複雑な形状を表現させるところに、その醍醐味がある。(weightを多用すれば別だが好きではない)
  6. 形を精緻に制御するためにはメッシュの均一性(各ポリゴンの過度な大小を作らない) も大切になってくるが、綺麗で均質な四角ポリゴンで構成されたモデルは、テクスチャをはじめとしたuv処理や、ダイナミックな変形、破壊等のシミュレーションにおいても大いに有利にはたらく。見た目の美しさや歪みの少なさが、データ的なそれに直結している。
  7. 出来上がった滑らかな曲面を、そこに表現されている以上に「無限に滑らかになる可能性をもった曲面」として眺めるのが最高に楽しい。

個人的には実用面で全くその必要性がなくなったとしても、単なる楽しい営みとしてこれからも続けるだろうと思う。SDSモデリングはコンピューター上で行う作業の中でも特に楽しいもののひとつなので、イラレでのトレース作業などが好きな人には是非一度おすすめしたい。

2022-05-14

日記への信頼

かなり不定期だけれど、もう10年ほど日記をつけている。ツールやアプリは乗り換えてきたものの、基本的にはデジタルな媒体に頼っていたのだが、最近ちょっとした経緯から、初めて手書きでA4ノートに書いてみることにした。まとまった文章を手で書くのは学生の時以来で、ノートに一文字ずつ手で書くという行為がこんなにも果てしない行為だったかと気が遠くなったりもしたが、それと同時に書くときの心構えにもある種の変化があるのに気付いた。それは「書く」行為による身体性からの影響もあるが、大部分は媒体への信頼の違いから来るものだと感じた。端的に言うと「紙にこんな情報を残すなんてとんでもない!」という不安が過るのだ。

基本的に日記は読まれて恥ずかしいものだと思うし、少なくとも自分は人に読ませるために書いてはいない。でも出来事と思考の記録、それら一連の思い出としては機能してほしいので、数年後の自分 (もはや他人) が読み返して意味をなす程度には、文章としての体裁を保って書くことにしている。するとそれは同時に他人にとっても、ある程度の情報として機能してしまうことになる。

紙媒体は脆いイメージもあるが捨てない限りはモノとして残るので、ローカルやクラウドに保存されたデジタルな日記と比べて、将来的にふとした事故で人目に付く可能性が圧倒的に高いように思う。最初こそ扱いに気をつけていても、あまり興味のなくなった頃に適当に他の書物と棚で一緒にしてしまったり、出先で書こうと思って持ち出した時に置き忘れたり、うっかり他人に読まれる状況はそれこそ無限に想像できる。そんな媒体に、自分の最もパーソナルな情報を書き連ねて束ねておくというのは、実は結構勇気が要ることなのではないか。

一方でデジタルは、アプリやサービスの終了と同時に消滅してしまうリスクはあるが、他人に偶然読まれるような状況は(自分の死後を含めても)まず考えにくい。そう思うとかなり高い信頼を持って自分を開示していくことができる。そしてそれは、個人的に日記を書くという行為の大きな目的でもある「思考を一旦自分の外に出し切り、客観視する」という部分に対しても大切な意味をもつ。信頼のない相手に対して、思考を出し切ることはできない。

別に誰に読ませるつもりでなくとも、文章としての体裁を保つ以上、ぼんやりと受け手を想定して書くことになるのは日記の面白い所だと思う。そして自分はその架空の受け手への信頼度が、書いているツールや媒体によって変わってくる。(同じデジタルであっても、仕組みがローカル保存からクラウドに移行したときにすら、微妙にスタンスが揺れたのを覚えている。) そして紙が情報の記録媒体として堅牢で信用に足る裏返しとして、日記の受け手としては信頼し切ることができないのだ。

結局、日記としての意味がなくなってしまうので、デジタルの同レベルの開示を紙ノートに対して努めているものの、やはり一定の緊張や強張りを伴う形になっている。

以前、某タレントがニュースのコメントで「子供の頃、私は日記帳に名前をつけていて、何か日常で嫌なことがあると『帰ったら〇〇ちゃん(日記帳)に愚痴を聞いてもらおう』と思ってやり過ごしていた」的なことを話していた。擬人化までしたことはないが、一旦人に開示するかのような気持ちになるのにはとても共感する所があった。ちなみに書き終えた日記帳は誰にも見せずに、都度捨てていたらしい。これはひとつの信頼の高め方だと思った。

また、去年から聴いてるImage CastというPodcastで東さんが「地中深くにに埋められて、誰にも発見されないまま未来永劫存在し続けて欲しい」的なことを仰っていた。読まれたくはないが、なかったことになるのは惜しい、という矛盾するような気持ちも確かに共感できる。(話題が深くは掘られなかったので、解釈として合っているかは怪しいけれど)

ということで自分は今書いているA4ノート日記は一旦書き切り、これはすぐに捨てることにして、今後はまた安心して残せるデジタルに戻るのだろうと思う。余談だが、日記アプリはあまりにサクッと過去の日記を見返せてしまい「歳を重ねて最近やっと分かってきた」と意気揚々と書こうとした真実を、1年前に3年前にも10年前にも同じテンションで発見していることを日々残酷に突きつけてくれる。大変助かっている。


2022-01-04

Kindle

7年ほど使っていたKindleを買い替えた。新しい世代が出るたびに少し気にはなっていたけれど、特に不便もなかったので決め手に欠けたのだが、ついに紛失してしまった。おそらく久しく乗った飛行機の、座席前の網の中だ。でも思えば身の回りで、7年も使って不便を感じないガジェットはほぼ皆無で、これは結構特異なことだと思う。

大体はソフトウェアの進化にハードウェア側が追いつかなくなったり、もっと便利なものが登場して羨ましくなったり、バッテリーの消耗から「そろそろ潮時かな」というタイミングが2〜3年で来るものだが、Kindleはそんないずれのきっかけとも基本無縁なのだ。特に目ぼしいアップデートが無いというのもあるが、そもそもバッテリーの持ちが異常に長く(毎日使っても数週間はもつ)、何よりデバイスが「本を読む」という唯一の目的に特化していて、こちらもそれ以上を求めていないのが大きい。

そしてそれは7年前の時点で、既に(自分にとっては)十分達成されていたように思う。漫画や雑誌を読むことにも使う人はまだ物足りなさを感じるかもしれないが、少なくとも自分はKindleには活字での読書体験しか期待しておらず、それに関して言えばほぼ何も変わっていなかった。

強いて言えば、ページめくりの物理ボタンが排されたことが惜しかった。以前は左右の脇にあるボタンでページが送れたのだが、特に左側にあった「戻る」ボタンが消えたのはとても惜しい。というのもKindleは画面タップやスワイプでページめくりを行うが、操作の結果、次のページに行ったのか、あるいは戻ったのか、画面上の反応からはかなり判断しづらいのだ。そもそも「進む/戻る」の挙動を分ける左右のタップ領域が厳密には示されておらず、(デフォルトを「進む」にしたい意図なのだろうが) 中央付近は「進む」であるため、少し偏った位置にその境界がある。やや保険をかけて端の方をタップしても、活字の羅列がふわっと別の羅列にクロスフェードするだけで動きに方向性がなく、操作が意図通りに行われたか、常に小さな不安が伴う。操作位置に依らず、確実性の高そうなスワイプ操作も特に最初の一回はタップと誤認されてしまうことが多く、ページを進めたつもりが前のページを読んでいたことが何度かあった。(ページ番号表示をONにし、それに注視しておく、という手は一応とれるが面倒)

これがiPhoneなどのスマホであれば、スワイプ時に若干紙面が指にひっついてきたり、タップ時に左右へ軽いアテンションをつけるところだろうが、Kindleの画面リフレッシュレートや処理能力でそんな芸当はできない。普段はもはや意識にすら登らない、スマホ画面のマイクロインタラクションの恩恵を改めて認識するところではあるけれど、それができないデバイスにおいては確実な操作のための代替手段 (=物理ボタン) が有効に働いていたように思う。

良い面に話を戻すと、期待する機能を既に十二分に満たしている意味では、その存在は腕時計などに近い気がする。デジタルデバイスと言うより、道具やモノの側。そして電子ペーパーを用いた画面特性が、さらにそれを後押ししている。日光下で見やすいというのは、ガジェットの象徴である液晶画面の持つ特性とはいわば逆のもので、未だにはっと不思議さを覚える。結果として無意識に屋外や明るいロケーションを選んで使いたくなることも、存在の認識をアナログに寄せるのかもしれない。

全く物理本を買わない状況にやや後ろめたさを覚え始めたこの頃でもあるのだけれど、デジタルデバイスの中のKindleの存在もまた良いよね、と思うのでした。

2022-01-02

自分を信じて頑張る

小中学校ではよく「自分を信じて頑張れ」的な言葉をかけられたし、目標としても掲げた記憶がある。でも稚拙で当たり前すぎるのか、年を重ねるとあまり聞かなくなるし、むしろ信じないのが責任ある大人、というイメージにどこかですり替わってしまったように思う。

社会に出ると、圧倒的に自分を信じないことの方が求められる。「朝起きる自分」は信じず寝る前には目覚ましをかける。「いつかやる自分」は信じずタスクリストやカレンダーで進捗を管理する。「今週中に終える自分」も信じずスケジュールにバッファを取る。

どこか自分自身を変えようとするときも、まずは自分の周囲の「人」「場所」「時間」のいずれかを変えろ、と言われる。そして「自分を変えるぞ!」という自らの意思に頼るのは、最たる悪手だとされる。端的に言うと、たとえ自らを変えたいという状況にあって尚、自分は信用するなというのが通説になっている。

やる気が出ないときも、自分の意思のせいにはしない。きっと睡眠不足のせいであり、運動不足のせい、あるいは部屋のCO2濃度のせいだと疑う。「自分の状態管理」は自分のせいとも言えるが、基本的には意思というよりも客観的に捉えられる事実、あるいは環境の側に原因を見出して改善を図っている。

ただ、そうやって「できない自分」の要因をどんどん外部化し対策していくと、いつしか自分が自分ではなく、何か上手く制御すべき対象のように思えてくる。意思を持って取り組んだり、心で踏ん張るときの力み方を忘れてしまう。そんな不安が徐々に大きくなり、20代は前のめりに取り組んできた自己制御・ライフハックの類に、最近は得も言われぬ危機感を覚えるようになってきた。

自らの意思を無視して「やりたくないこと」に対する行動の制御を繰り返すと、意思を持たない方がいっそ効率が良いことに気づき、あらゆることへのやる気を失ってしまう。本来は意思のサポートであったはずの、上辺だけの習慣やライフハックだけが残り、自分はその弱々しい波間を漂うだけの存在になる。もはやそこに自らの推進力はなく、生物的な性質を利用して機械的に振り回されているだけである。

そしていつしか「自分が何がしたいか」ではなく「自分をどうしたいか」をベースに思考し、施策を講じようとしていることに気づく。「なりたい自分」を設定して向き合うこと自体は悪くなさそうだけれど、その手前で何か抜け落ちている気がしてならない。たとえ不器用でも意志のある方向へ必死に藻掻いている方が、よっぽど健全に思えてならない。

こんな状態から抜け出すために、一体何ができるのか。まずは心の機微に目を向けることが起点になる気がする。自分がしたいことはもちろん、したくないことも気に留める。曖昧な状態も許容し、観察する。心のありように目を向け、柔軟に動けるようにする。そうやって心の揺れに対する結果を、自身にきちんとフィードバックしていけば、また意思を持とうとする気力も芽生えるのではないだろうか。

自分不信を全うすることで社会人として程々に立ち回れるようになった一方で、「自分を信じて頑張る」を軽視していたツケに、今改めて向き合わされているような気がしている。