2017-09-25

カラオケ #2

自分はよく一人でカラオケに行く。前回は苦手だった経緯を書いたけれど、どうして逆に振り切れて、欠かせない習慣として定着したのか。何となく認識しているカラオケの効能や、好きなところから、自分自身に対して探ってみる。

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<運動と声量>
 自分は生活の上でも性格の上でも、発声する機会が少ない。声量を上げることはさらに少ない。家での日常会話は存在しないし、他の会話はレジでの「結構です」、飲食店での「ごちそうさま」、仕事電話の「了解です」くらいの単語でほぼ賄えてしまう。友人と議論で激昂することもないし、肩を叩いて激励し合うこともない。声を張る機会なんて滅多に無い。
 そんな自分が、稀にある撮影現場で「スタート!」や「カット!」の声が(ギリギリ)通るのは、カラオケのおかげだと思う。筋トレと同様に、普段出さないレンジまで声を定期的に出しておかないと、声量が日常会話のそれを上限とみなして衰退してしまう。表情筋についても同様で、使わなければいずれ頬や眉が凝り固まってしまうだろう。

<感情と表情>
 会話の少なさに加えて、自分は感情のレンジがおそらく人より狭い。ゆえに、表情にも乏しい。でも歌うときには、自分よりもずっと感情豊かな人たちの言葉を借りて、表情豊かに喜んだり、怒ったり、夢を叫んだりする。暴力的なラップを歌う時、熱いバラードを歌う時、普段とはまるで違う言葉遣いで、話さないような速さで、普段全く使うことのない筋肉を酷使する。大げさに言うともはや外身だけが自分で、他人が憑依した状態に近い。
 不思議なことに明るい顔で歌うだけで、歌声も驚くほど明るい印象になる。逆も然りだ。表情の変化は音程やその他様々な要素となって、歌声に確かに影響している。だから全力で表情をつくる。すると自分も、普段あまり持たない感情を抱くことに気付く。「楽しいから笑うのではなく 笑うから楽しくなる」とはYUKIの歌詞の一節だが、表情から感情にはたらきかけることは可能なのだ。

<ストレス発散>
仕事に大したストレスはないけれど、大声を出すのは単純に楽しい。自律神経にも良いと聞く。

<自己検診>
 前回の記事で書いたようにいくら初期条件を注意して揃えても、うまく歌えないことがある。明るさが足りない、息が続かなかい、といった比較的分かりやすい状態もあるし、言葉にできないような妙な印象を受けるだけのときもある。そういうのは、自分の体か心がイレギュラーな時だ。歌うと、それまで自分が気付かなかったような自身の些細な変化に気付くことができる。風邪の引きはじめから心の小さな凹みまで、歌声には如実に反映されるもので、カラオケはちょっとした体調チェックも兼ねることができる。

<身体的学習>
 これは上で挙げたような心身の健康のためというよりは、もう少しプラスアルファの楽しさについて。
 自分は職業柄、知識を通して体系立てて「頭から」学習する機会は多くても、その逆は少ない。歌は当たり前だけれどダンスとかと同じ「身体から」覚えるもので、その学習曲線・成長曲線が全く違うように感じられ、それが新鮮でおもしろい。
 特にそれを実感するのは、経験則として一番良い歌声が出るのは決まって「何も考えていない時」であるということ。「もっと息吸わなきゃ」「頭の後ろから声を出すように」「口が開いてない」「喉からではなく腹から」…など色々思案すればするほど歪みが生じ、上手くいかない。逆に何も考えず、ただ歌うことに集中できている時は、全てが自然と正しいバランスで保たれていて、声質も良いし、歌っていて楽しい。歌う、という極めて繊細な全身運動において、左脳的な細々とした理屈がいかに無力かを痛感する。

 なんだか宗教臭いけれど、このような感覚先行で意図して自分の身体をコントロールできたことがなかったので、初めは衝撃だった。頭で上手くやろうとするほどに逆にはたらいてしまう感じが、最初ちっとも楽しめなかった最大の要因だったのかもしれない。今はむしろ、あえてボイトレのメソッド等はあまり調べずに、とことん身体で試し、そこで感じる「うまくいった!」という小さな成功体験のみを細かく捉えるようにしている。

 身体的なスキルは「できた!」ときの喜びが本当に大きい。喜びがリアルタイムにフィードバックされて、すぐさま声に反映されていくスピード感も、また楽しい。
 特に音域については分かりやすい。最初はちっとも出なかった音が、か細い声でも初めて出た時、ちょっと無理してでも前の音から繋がった時、最終的に何も考えずに自然と出るようになった時… と同じ曲の同じ音に対して、何度も嬉しいタイミングがやってくる。それが歌っている中に自覚できると、その瞬間から一気に声に張りが出る。この繰り返しが続くと、もう自然と歌うのが止められなくなってしまう。

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カラオケに何年も通いながら、ぼんやり考えていたことを初めてテキストとして書き出したら少しスッキリした。今は以前ほど人と一緒に行くカラオケに強い抵抗感は無いけれど、自分にとってのカラオケは心身を整える調律のようなもので、人との筋トレや瞑想が想像しづらいように、やっぱり一人がしっくりくる。
(そもそも、こんな面倒なカラオケは相手が御免だろうけど)

今の働き方や考え方に合致した貴重な習慣なので、これからも楽しく続けて、捉え方の変化を観察したい。

2017-09-23

カラオケ #1

自分はよく一人でカラオケに行く。行き始めたのは高校の終わり頃からだったように思うので、もう始めて10年弱になる。生活も仕事も環境が頻繁に変わっていたせいで、たまに期間が空いたりしたけれど、なんだかんだ習慣として戻ってくる。それは何年か疎遠でもまたすぐにくだらない会話を再開できる友人のようで、これは相当な腐れ縁になるぞ、と最近実感として分かってきた。

でも元々カラオケは大嫌いで、そういう状況になりそうな時は全力で避けていた。というのも小中学校の頃の合唱は大好きだったのに、いざあの部屋、友人の前で、J-POPの類を歌おうとすると勝手が全く異なって、ちっとも上手く歌えなかったからだ。合唱の頃に習った口の開き方や、呼吸法、声の響かせ方など、全てが無意味に思えた (実際は活かせるのだろうけど、当時の自分にとっては)。一方で上手に歌う友達は全くそんなこと気にしていない風だったし、何より楽しそうだった。

好きだった「歌う」という行為が楽しめないことがとにかく悔しくて、そこに立ち向かうべく通い始めたのがきっかけだった。ただ、最初の数年間はちっとも楽しくなくて、いつも絶望的な気持ちで部屋を後にしていた。まず息が持たないし、高さも足りないし、リズムも取れない。自分の歌えてなさを自分で痛いほど自覚して、ひたすら凹む。頑張ってリキむと喉が潰れて痛くなり、さらに声はひどくなり、1曲すらも完唱できない。なんでこんなに歌えないのか分からない。でもまた歌う。また曲を入れてマイクを持って、また凹む。それを繰り返す。「ストレス発散」というイメージとは真逆のヒトカラに、悔しくて、何度も通った。

そのうち10回に1回くらい、「今日はちょっと歌えた」と実感できる日ができた。男性ボーカル曲をあきらめて、女性ボーカル曲のオクターブを下げて歌ってみたら、音はいくらかとれるようになった。あとは低音でそこまで音程の上下しない、ラップであれば歌えた。ラップはあの速さで自分の口が動き、同期すること自体に楽しさを得られた。歌った分だけぴったり合ってくるので、練習の甲斐もあった。合唱の基本は一旦忘れて、話すことの延長のつもりで、もっと楽に歌うようにした。そうやって少しずつ、当初まるで歌う気の無かった曲で練習していたら、カラオケそのものが楽しかった回数は増えた。

それでもやっぱり絶望する日の方が多かった。調子の落差が激しかったし、一旦喉がダメになるとその日は部屋を出るまで復調しなかった。初期条件を揃えるための準備運動が必要なのだと思い、色々調べた。息を限界まで吸って細く長く出し切る横隔膜の体操、「ラ・ガ」を連続して発生する喉を広げる運動、「い」の発音を維持したまま徐々に「う」の形へ唇をシフトさせていく口周りの運動など、違う部位に対していくつかの準備運動すれば身体の初期条件がある程度整うのが分かった。あとは喉に影響しないドリンクを選び、無理の無いスピードで徐々に音域が上がっていく曲を、最初に歌う曲として固定しておく。これでだいぶ「楽しかった」と思える日の確率が上がっていった。

楽しめるようになってくると、より上手く歌いたくなった。楽器用のマウスピースを用いた呼吸のトレーニングや、布団の中でのボイトレなど、余波がカラオケルームの外にまで及んできた。自分にとって最終手段だったけど、iPhoneで録音して、時間をおいて聴き直したりした(ひどく自分の声に抵抗があったので)。実際ひどくショックを受けたし、歌いながら聴くよりもはるかにヘタだったけれど、これが人前に出る前で良かったとしみじみ思った。まだ音程のズレはカラオケ筐体の機能である程度分かるけれど、リキんでいて全くスムーズじゃないとか、何より全然楽しそうじゃないとか、そういうのは録らないと全然気づかないことだった。楽しそうな曲は、楽しそうな顔で歌う必要があるとわかり、以後は部屋の反射物を探して鏡代わりに表情や口の広げ方も見るようになった。

そんなこんなを続けて、今はカラオケで楽しくないことがほぼなくなった。

数年して慣れてきたあるとき、ふと始めた頃にまるで歌えなかった男性ボーカル曲を入れてみて、音が自然に歌声として自分の口からでたときは、言葉にできない感動があった。歌っていて信じられない気持ちになった。もっとも学生時代の友達は特に苦労もなく歌っていたものだったし、一般人からはまだ程遠いのだろうけれど、それでもこんなに嬉しいことはなかった。

カラオケが楽しくなってからの話を、近々続きで書きます。