2015-02-22

ストーブ

最近、石油ストーブを買った。冬も終わろうかというタイミングだけれど、知り合いの家にお邪魔したとき、その素敵な佇まいと暖かさに一発で魅了されてしまった。そして実際使い始めてみて、もう完全に虜である。

見た目的にはアラジンのブルーフレームに憧れつつも、その知り合いの言葉を信じてトヨトミのレインボーストーブを購入。少し間抜けな感じがしてかわいい。異臭とか給油周りのトラブルも今のところなくて、素晴らしい仕事をしてくれている。

冬場の、部屋の寒さはずっと悩ましい問題だった。

すごく寒がりというわけではないが、ずっと椅子の上で動かないと、足が冷水に浸かっているかのように冷える。エアコンを強くするのも気が引けるし、強めても元々平気な上半身ばかりが暖まる。解決策としてよく挙がるのは加湿器・サーキュレーターとの併用だけれど、モノが増えるし電気も食うし、何より面倒だ。足先から感覚が消えたのを察すると、ファンヒーターで強制解凍していたけど、これは1160Wも食う。ちょっと強がって「もう大丈夫だ」と足早に消すと、その瞬間からまた凍り始める。

これはもう熱源として一線を画すものが必要なのでは、と思っていた矢先の出会いだった。

石油ストーブは一切電気を食わないし、騒音もない。かわりに、ぬくもりがある()。エアコンの風や温度上昇を「ぬくもり」とは言わないけど、ストーブのそれは明らかに、ぬくい。中央で炎がふわふわと揺れて、部屋の周りが少しオレンジに染まり、体もじんわり芯から暖まる。上にやかんを置けば加湿もできるし、その佇まいだけでほっこりする。別の知人に「綾波レイの部屋」と酷評された自室の内装的にも、人間味が加算されて嬉しい。そして機能的にも、足冷え問題が完全に解消された。

理屈の上でも、炎の光は遠赤外線的(?)に周りを暖めるし、そもそも灯油は燃焼時に水蒸気を伴うらしい。あと、こういう対流型ストーブは部屋の中央で空気の上昇を促して部屋全体の空気をゆっくりかき回すらしく、同じ暖まるのでも、エアコンとは体験として全く異質だ。切った後も、部屋自体が暖まるのか、エアコンより冷めにくい。

一応難点も挙げると、やはり灯油の手配は面倒。実際買うときに唯一躊躇したのはその点で、結局は宅配サービスにお願いすることになった。週一とかで近所を巡回に来るので、ネットで予約を入れておくと、家に寄ってポリタンクに入れてくれる。(車を持っている人や、なくてもガソリンスタンドが近い人は、そこで給油できる)自宅作業で1日フル稼働させ続けると、ポリタンク18リットル(およそ1500円)が大体2週間弱でなくなる。金額面では、エアコンフル稼働とあまり大差ない気がする。そして半端なタイミングで切れると、残された日々がつらい。本体への給油自体は、電動ポンプが1本あればさほど面倒じゃない。

あとは頻繁に換気が必要になる。最悪の場合死ぬという恐怖から、わりとマメにしている。(作業効率的にもいい習慣だと思う)

ということで、いくつか難点はあるが基本的には可愛くて暖かくて最高である。これで大の冬嫌いが治るかというと正直足りないが、次の冬に向けて小さな楽しみができた。導入のきっかけをくれたフォトグラファーの後藤さん夫妻に感謝をしつつ、周りの人にも是非薦めていきたい。

2015-02-08

言葉

この一ヶ月ほど、人と話す機会によく恵まれた。そして多くの場面で、救われたなと思うことが多かった。自宅作業が続いてまともな会話のない日が数日間続くと、何とも言えない危機感をおぼえる。外気を吸ったり、運動をしたりするのと同じで、「会話」は人が前を向いて生きるのに必要な要素な一つだろうなという実感がある。基本的には嬉しく、楽しく、ありがたい。

でも、会話には言葉を使う。

頭の中のモヤモヤを、自分の言葉にして、それを発して、相手が言葉を受け取ると、相手の中で再解釈される。シンプルなようで、どこも正確につながってない。そもそも言語化は難しいし、同じ言葉でも解釈は千差万別。そしてきっと自分で編み出した言葉ですら、それを人から言われるとまた、同じ解釈ができるか怪しい。どんなに上手くいったとしても、最初のモヤモヤがイコールで伝わることなんてまず起こらないし、むしろ会話なんてすればするほど誤解が広がっていく気もする。

自分の言語化する精度以上に、受け手の解釈の方にはきっと大きな差が出る。本来とは間逆な言葉のほうが、伝えたい意向が伝わることだってあるかもしれない。ストレートな言葉だって、それに纏わり付く意味を考えない人はいない。辞書にある言葉の意味にとらわれず、最終的に相手に与える影響を考えて言葉を使える人が、会話の上手な人だと思う。

言葉は怖いもので、自分の中で使うときにも同じ問題が起こる。

所謂デザイナーな人たちは、素晴らしい作品に出会った時、何が素晴らしかったのかを言語化する癖があると思う。「構図が〜に沿っていたから」とか「配色が〜を思わせる」とか、そういう言葉に分解しておいて、記憶にストックしておく。もちろん大事だと思うけれど、それによって失われる情報がある。漠然とした「素晴らしい」という魅力を分解し、それをいざ自分の作品に適用しても、同じ魅力が得られることなんてほとんどない。そこには分解しきれなかった、あるいは発見できなかった大事な要素があるのだと思う。なんでも言葉にバラしてしまうのは、なんだか個人的にはもったいない。

また、漠然とした感情を言葉にしたとき、それを改めて自己解釈して「そうか、自分は怒っていたのか」みたいな発見をすることもある。言葉にしなければモヤモヤした状況からは抜け出せないが、それが本来の感情だったのかは、もうその時には分からない。一度言葉にすると、その印象は強く、元の状態はもはや分からなくなってしまう。

言語化は、必ずしも得策だとは思えない。会話は大事だし、自分の思考整理も大事だけれど、その都度、何かしらの変化と影響を生むことを覚えておきたい。それが意図しないことであれば、言葉にしなくたっていい。でも言葉にしないと、モヤモヤは輪郭を得ず、物事や思考も前に進まない。共感も得られず、楽しい会話だってできない。

この一ヶ月の会話の中で、自分はつくづく言葉の使い方が下手だと思った。でもその状況がうまく整理できなかったので、いろんな会話や思考を省みながら、考えたことを一度、言葉にしておきたくなった。