2015-02-08

言葉

この一ヶ月ほど、人と話す機会によく恵まれた。そして多くの場面で、救われたなと思うことが多かった。自宅作業が続いてまともな会話のない日が数日間続くと、何とも言えない危機感をおぼえる。外気を吸ったり、運動をしたりするのと同じで、「会話」は人が前を向いて生きるのに必要な要素な一つだろうなという実感がある。基本的には嬉しく、楽しく、ありがたい。

でも、会話には言葉を使う。

頭の中のモヤモヤを、自分の言葉にして、それを発して、相手が言葉を受け取ると、相手の中で再解釈される。シンプルなようで、どこも正確につながってない。そもそも言語化は難しいし、同じ言葉でも解釈は千差万別。そしてきっと自分で編み出した言葉ですら、それを人から言われるとまた、同じ解釈ができるか怪しい。どんなに上手くいったとしても、最初のモヤモヤがイコールで伝わることなんてまず起こらないし、むしろ会話なんてすればするほど誤解が広がっていく気もする。

自分の言語化する精度以上に、受け手の解釈の方にはきっと大きな差が出る。本来とは間逆な言葉のほうが、伝えたい意向が伝わることだってあるかもしれない。ストレートな言葉だって、それに纏わり付く意味を考えない人はいない。辞書にある言葉の意味にとらわれず、最終的に相手に与える影響を考えて言葉を使える人が、会話の上手な人だと思う。

言葉は怖いもので、自分の中で使うときにも同じ問題が起こる。

所謂デザイナーな人たちは、素晴らしい作品に出会った時、何が素晴らしかったのかを言語化する癖があると思う。「構図が〜に沿っていたから」とか「配色が〜を思わせる」とか、そういう言葉に分解しておいて、記憶にストックしておく。もちろん大事だと思うけれど、それによって失われる情報がある。漠然とした「素晴らしい」という魅力を分解し、それをいざ自分の作品に適用しても、同じ魅力が得られることなんてほとんどない。そこには分解しきれなかった、あるいは発見できなかった大事な要素があるのだと思う。なんでも言葉にバラしてしまうのは、なんだか個人的にはもったいない。

また、漠然とした感情を言葉にしたとき、それを改めて自己解釈して「そうか、自分は怒っていたのか」みたいな発見をすることもある。言葉にしなければモヤモヤした状況からは抜け出せないが、それが本来の感情だったのかは、もうその時には分からない。一度言葉にすると、その印象は強く、元の状態はもはや分からなくなってしまう。

言語化は、必ずしも得策だとは思えない。会話は大事だし、自分の思考整理も大事だけれど、その都度、何かしらの変化と影響を生むことを覚えておきたい。それが意図しないことであれば、言葉にしなくたっていい。でも言葉にしないと、モヤモヤは輪郭を得ず、物事や思考も前に進まない。共感も得られず、楽しい会話だってできない。

この一ヶ月の会話の中で、自分はつくづく言葉の使い方が下手だと思った。でもその状況がうまく整理できなかったので、いろんな会話や思考を省みながら、考えたことを一度、言葉にしておきたくなった。

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