2015-12-30

ちょっと別件で。

キャパオーバーは最悪だ。
余裕がない。人に時間も合わせる余裕も、人の気持を考える余裕もない。頭は朦朧とするし、最高な仕事であっても新たに発生する作業時間ばかり気になって、前向きな提案の一つもできない。作業の中で何かを学ぶ余裕もないし、試行錯誤も細かい対応もできない。人に頭を下げ続け、ひたすら健康と信頼を失い続ける。何をとっても最悪としか言い様がない状態だけれど、どんなに避けようとしても、起こるときには起こってしまう。

常日頃から各案件の見通しを立てる努力をしていれば、大事故は防げるかもしれない。
でも小さな事故は絶えず起き続けていて、実は見て見ぬふりをしながらこの業界は回っているように思う。

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そもそも、最初に聞いたスケジュールから動かない仕事なんてほとんどない。平気で伸びるし、ずれるし、止まったかと思えば急に分裂して枝分かれしたりもする。一方で「別件が〜」みたいな言い訳が業界用語としてまかり通るように、他の仕事を一切被せず万全な状態でしか仕事を受けない人も見ない。発注側も受注側も、ある種の柔軟さを持って仕事をしていて、それで日々回っている。そのお互いの緩さは、正直とても不誠実に映ることがある。そこに仕事の質を担保できる保証はどこにもないのだ。

よく仕事をホテルやレストランの予約に例えて、勝手なスケジュール変更は、ペナルティなく予約日を変えるのと同じだと言われる。予約を受ければ当然お店は被りそうになった客を断ったり、食材を用意したり仕込んだりするわけで、それが「3日延期で。」の一声で全て無駄になったらたまったものではない。これは仕事を受注するフリーランスに対しても同じことが言える、というものだ。

基本的には分かるけれど、この例えで言うと、実は店側も結構ルーズなのを見落としがちだと思う。「別件が忙しくて〜」という言い訳は、「別の客への対応で〜」みたいな言い分で料理の質を落としたり、オーダーされた料理を何時間も待たせるのとなんら変わりがない。そんなレストランには誰だって二度と行かない。ただし客側も平気で予約やオーダー変更をバンバン飛ばすので、真摯に最高のサービスを提供し続けようとする店は精神をすり減らし続けることになる。一方が緩いと、もう一方も緩くならざるをえない。

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話は変わるけれど、12月の中頃、机を購入した。「こんな机がほしい」と伝えると、「2月中旬に作り始めるので、納品が2月末になります。この値段になります。」と案内を受けた。すぐに欲しかったので少し悩んだけれど、納得した上で欲しかったのでその内容で発注と入金をした。

ごく普通の受注生産でのやりとりだと思うけれど、発注側の期待に対して、受注側がきちんと応えられる仕組みがそこにあって、なんて健全なやり取りなんだろうと少し憧れた。

1. 作りたいものの相談を受ける。
2. 時間と費用の見積もりを出す。
3. 納得がいけば発注を受ける。
4. 約束した期日に納品する。

こんな形で仕事ができれば、理屈では無理なスケジューリングは発生せず、確かな品質のものを無理なく相手に届けることができる。相手もきちんと吟味した上で発注するし、安心して待つことができる。

広告や映像の仕事がこんなシンプルにはいかないのも分かるけれど、タスクを細分化したとき、これに極力沿っているかは意識しておきたい。特に1-2はお互いに「この内容で、この時間で、この費用で大丈夫か」と伺いを立てる行為であって、都度その姿勢を保ち続けることこそがプロジェクト進行において何より大事だと思う。そしてこの密なやりとりは、きっとキャパオーバー状態では到底かなわないものだ。

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コミュニケーションの雑さが誠実な物づくりを阻んでいて、その雑さの根源にあるのは業界全体の忙しさなのに、それをどこか是としてしまっている雰囲気。そんな図式にも、すごく嫌気がする。

その一端を担うような真似は絶対にしたくないし、何より自分を頼ってくれた相手には誠意をもって丁寧に対応したい。自分と業界の現状を鑑みながら、キャパオーバーを回避しながら多くの人とお仕事していくために何ができるか、無い頭を絞って考えていきたい。

2015-04-19

理科部

3月中旬。お台場の科学未来館の常設展の一部が刷新され、そこで使われる映像の1つを担当させてもらった。小さい頃から好きな科学館という場所で、久しぶりに純粋なモーショングラフィックを丁寧に作らせてもらい、全体としても大変素敵な展示で、自分にとって思い入れの大きな仕事になった。

でも何より嬉しかったのは、中学の時に在籍していた「理科部」の顧問の先生が、自分の名前をクレジットに見つけてくれたことだった。自分は元部員の仲間から間接的に聞いたのだけど、わざわざメールで「これは本人か」と問い合わせてくれたらしい。名前を覚えて頂いていただけでも、ありがたい。

理科部は、名前からはとても想像し難いハードな部活だった。ざっくり言うと「1年かけて夏休みの自由研究をする」というのが活動内容で、放課後はもちろん朝練も毎日あったし、夏季合宿もあった。部活が大好きだった自分にはハードというよりも、単にその密度が嬉しかった。未だに試験管は水滴跡や指紋を残さずに洗って乾かせると思う。最後には部長もさせてもらった。

エタノール爆発やらロボットハンド制作をしていた一方で、FlashやBMSAとの出会いをくれたのも理科部だった。元々いた先輩方が色濃く、いろんな世界を見せてくれた。そもそも、好きなことに傾倒した人たちがギュッと集まったコミュニティを目の当たりにしたのもそれが初めてで、感動を覚えた。そしてそのメンツを束ねていた、顧問の先生は特に印象深かった。

もう教員歴も随分と長い女の先生だったけど、「健康のため」と誰よりも大股・早足で歩き、朝から晩までキビキビと音が聞こえてきそうな動きを保ち、怒っても笑っても、他のどんな先生よりも迫力(魅力)があった。車と音楽に対する男性顔負けの情熱を持ち、通勤に使っていたGT-Rは教職員用の駐車スペースで1台異彩を放っていたし、1度だけご一緒したアイアン・メイデンのライブでは最前列で旗を振って叫んでいた。趣味の顔は「理科の先生」をしている時にはあまり見せなかったけれど、たまに白衣の下に炎と骸骨のTシャツ柄がうっすらと透けていて可笑しかった。

でもそれら趣味と同じくらい、生徒に深く愛を持って接してくれた最高の恩師だった。身体を張ってたくさんの知識と体験を与えてくれたし、自分の単なる「理科好き」を、論理的な思考力として自分の根幹に落としこんでくれた人だと思う。

寂しいことに三年生の時、途中で先生が他の学校へ移動になってしまい、受験もあって自分も部活への熱もそこで一気に冷めてしまった。

今、いわゆる「真っ当な理系」からは逸れてしまった身だけれど、科学館という場所で先生に自分の活動を目にしてもらえたのは嬉しかった。しばらくの間は未来館に足を運ばれるとも聞いたので、近々きちんとご挨拶に行きたい。

2015-02-22

ストーブ

最近、石油ストーブを買った。冬も終わろうかというタイミングだけれど、知り合いの家にお邪魔したとき、その素敵な佇まいと暖かさに一発で魅了されてしまった。そして実際使い始めてみて、もう完全に虜である。

見た目的にはアラジンのブルーフレームに憧れつつも、その知り合いの言葉を信じてトヨトミのレインボーストーブを購入。少し間抜けな感じがしてかわいい。異臭とか給油周りのトラブルも今のところなくて、素晴らしい仕事をしてくれている。

冬場の、部屋の寒さはずっと悩ましい問題だった。

すごく寒がりというわけではないが、ずっと椅子の上で動かないと、足が冷水に浸かっているかのように冷える。エアコンを強くするのも気が引けるし、強めても元々平気な上半身ばかりが暖まる。解決策としてよく挙がるのは加湿器・サーキュレーターとの併用だけれど、モノが増えるし電気も食うし、何より面倒だ。足先から感覚が消えたのを察すると、ファンヒーターで強制解凍していたけど、これは1160Wも食う。ちょっと強がって「もう大丈夫だ」と足早に消すと、その瞬間からまた凍り始める。

これはもう熱源として一線を画すものが必要なのでは、と思っていた矢先の出会いだった。

石油ストーブは一切電気を食わないし、騒音もない。かわりに、ぬくもりがある()。エアコンの風や温度上昇を「ぬくもり」とは言わないけど、ストーブのそれは明らかに、ぬくい。中央で炎がふわふわと揺れて、部屋の周りが少しオレンジに染まり、体もじんわり芯から暖まる。上にやかんを置けば加湿もできるし、その佇まいだけでほっこりする。別の知人に「綾波レイの部屋」と酷評された自室の内装的にも、人間味が加算されて嬉しい。そして機能的にも、足冷え問題が完全に解消された。

理屈の上でも、炎の光は遠赤外線的(?)に周りを暖めるし、そもそも灯油は燃焼時に水蒸気を伴うらしい。あと、こういう対流型ストーブは部屋の中央で空気の上昇を促して部屋全体の空気をゆっくりかき回すらしく、同じ暖まるのでも、エアコンとは体験として全く異質だ。切った後も、部屋自体が暖まるのか、エアコンより冷めにくい。

一応難点も挙げると、やはり灯油の手配は面倒。実際買うときに唯一躊躇したのはその点で、結局は宅配サービスにお願いすることになった。週一とかで近所を巡回に来るので、ネットで予約を入れておくと、家に寄ってポリタンクに入れてくれる。(車を持っている人や、なくてもガソリンスタンドが近い人は、そこで給油できる)自宅作業で1日フル稼働させ続けると、ポリタンク18リットル(およそ1500円)が大体2週間弱でなくなる。金額面では、エアコンフル稼働とあまり大差ない気がする。そして半端なタイミングで切れると、残された日々がつらい。本体への給油自体は、電動ポンプが1本あればさほど面倒じゃない。

あとは頻繁に換気が必要になる。最悪の場合死ぬという恐怖から、わりとマメにしている。(作業効率的にもいい習慣だと思う)

ということで、いくつか難点はあるが基本的には可愛くて暖かくて最高である。これで大の冬嫌いが治るかというと正直足りないが、次の冬に向けて小さな楽しみができた。導入のきっかけをくれたフォトグラファーの後藤さん夫妻に感謝をしつつ、周りの人にも是非薦めていきたい。

2015-02-08

言葉

この一ヶ月ほど、人と話す機会によく恵まれた。そして多くの場面で、救われたなと思うことが多かった。自宅作業が続いてまともな会話のない日が数日間続くと、何とも言えない危機感をおぼえる。外気を吸ったり、運動をしたりするのと同じで、「会話」は人が前を向いて生きるのに必要な要素な一つだろうなという実感がある。基本的には嬉しく、楽しく、ありがたい。

でも、会話には言葉を使う。

頭の中のモヤモヤを、自分の言葉にして、それを発して、相手が言葉を受け取ると、相手の中で再解釈される。シンプルなようで、どこも正確につながってない。そもそも言語化は難しいし、同じ言葉でも解釈は千差万別。そしてきっと自分で編み出した言葉ですら、それを人から言われるとまた、同じ解釈ができるか怪しい。どんなに上手くいったとしても、最初のモヤモヤがイコールで伝わることなんてまず起こらないし、むしろ会話なんてすればするほど誤解が広がっていく気もする。

自分の言語化する精度以上に、受け手の解釈の方にはきっと大きな差が出る。本来とは間逆な言葉のほうが、伝えたい意向が伝わることだってあるかもしれない。ストレートな言葉だって、それに纏わり付く意味を考えない人はいない。辞書にある言葉の意味にとらわれず、最終的に相手に与える影響を考えて言葉を使える人が、会話の上手な人だと思う。

言葉は怖いもので、自分の中で使うときにも同じ問題が起こる。

所謂デザイナーな人たちは、素晴らしい作品に出会った時、何が素晴らしかったのかを言語化する癖があると思う。「構図が〜に沿っていたから」とか「配色が〜を思わせる」とか、そういう言葉に分解しておいて、記憶にストックしておく。もちろん大事だと思うけれど、それによって失われる情報がある。漠然とした「素晴らしい」という魅力を分解し、それをいざ自分の作品に適用しても、同じ魅力が得られることなんてほとんどない。そこには分解しきれなかった、あるいは発見できなかった大事な要素があるのだと思う。なんでも言葉にバラしてしまうのは、なんだか個人的にはもったいない。

また、漠然とした感情を言葉にしたとき、それを改めて自己解釈して「そうか、自分は怒っていたのか」みたいな発見をすることもある。言葉にしなければモヤモヤした状況からは抜け出せないが、それが本来の感情だったのかは、もうその時には分からない。一度言葉にすると、その印象は強く、元の状態はもはや分からなくなってしまう。

言語化は、必ずしも得策だとは思えない。会話は大事だし、自分の思考整理も大事だけれど、その都度、何かしらの変化と影響を生むことを覚えておきたい。それが意図しないことであれば、言葉にしなくたっていい。でも言葉にしないと、モヤモヤは輪郭を得ず、物事や思考も前に進まない。共感も得られず、楽しい会話だってできない。

この一ヶ月の会話の中で、自分はつくづく言葉の使い方が下手だと思った。でもその状況がうまく整理できなかったので、いろんな会話や思考を省みながら、考えたことを一度、言葉にしておきたくなった。