2022-01-04

Kindle

7年ほど使っていたKindleを買い替えた。新しい世代が出るたびに少し気にはなっていたけれど、特に不便もなかったので決め手に欠けたのだが、ついに紛失してしまった。おそらく久しく乗った飛行機の、座席前の網の中だ。でも思えば身の回りで、7年も使って不便を感じないガジェットはほぼ皆無で、これは結構特異なことだと思う。

大体はソフトウェアの進化にハードウェア側が追いつかなくなったり、もっと便利なものが登場して羨ましくなったり、バッテリーの消耗から「そろそろ潮時かな」というタイミングが2〜3年で来るものだが、Kindleはそんないずれのきっかけとも基本無縁なのだ。特に目ぼしいアップデートが無いというのもあるが、そもそもバッテリーの持ちが異常に長く(毎日使っても数週間はもつ)、何よりデバイスが「本を読む」という唯一の目的に特化していて、こちらもそれ以上を求めていないのが大きい。

そしてそれは7年前の時点で、既に(自分にとっては)十分達成されていたように思う。漫画や雑誌を読むことにも使う人はまだ物足りなさを感じるかもしれないが、少なくとも自分はKindleには活字での読書体験しか期待しておらず、それに関して言えばほぼ何も変わっていなかった。

強いて言えば、ページめくりの物理ボタンが排されたことが惜しかった。以前は左右の脇にあるボタンでページが送れたのだが、特に左側にあった「戻る」ボタンが消えたのはとても惜しい。というのもKindleは画面タップやスワイプでページめくりを行うが、操作の結果、次のページに行ったのか、あるいは戻ったのか、画面上の反応からはかなり判断しづらいのだ。そもそも「進む/戻る」の挙動を分ける左右のタップ領域が厳密には示されておらず、(デフォルトを「進む」にしたい意図なのだろうが) 中央付近は「進む」であるため、少し偏った位置にその境界がある。やや保険をかけて端の方をタップしても、活字の羅列がふわっと別の羅列にクロスフェードするだけで動きに方向性がなく、操作が意図通りに行われたか、常に小さな不安が伴う。操作位置に依らず、確実性の高そうなスワイプ操作も特に最初の一回はタップと誤認されてしまうことが多く、ページを進めたつもりが前のページを読んでいたことが何度かあった。(ページ番号表示をONにし、それに注視しておく、という手は一応とれるが面倒)

これがiPhoneなどのスマホであれば、スワイプ時に若干紙面が指にひっついてきたり、タップ時に左右へ軽いアテンションをつけるところだろうが、Kindleの画面リフレッシュレートや処理能力でそんな芸当はできない。普段はもはや意識にすら登らない、スマホ画面のマイクロインタラクションの恩恵を改めて認識するところではあるけれど、それができないデバイスにおいては確実な操作のための代替手段 (=物理ボタン) が有効に働いていたように思う。

良い面に話を戻すと、期待する機能を既に十二分に満たしている意味では、その存在は腕時計などに近い気がする。デジタルデバイスと言うより、道具やモノの側。そして電子ペーパーを用いた画面特性が、さらにそれを後押ししている。日光下で見やすいというのは、ガジェットの象徴である液晶画面の持つ特性とはいわば逆のもので、未だにはっと不思議さを覚える。結果として無意識に屋外や明るいロケーションを選んで使いたくなることも、存在の認識をアナログに寄せるのかもしれない。

全く物理本を買わない状況にやや後ろめたさを覚え始めたこの頃でもあるのだけれど、デジタルデバイスの中のKindleの存在もまた良いよね、と思うのでした。

2022-01-02

自分を信じて頑張る

小中学校ではよく「自分を信じて頑張れ」的な言葉をかけられたし、目標としても掲げた記憶がある。でも稚拙で当たり前すぎるのか、年を重ねるとあまり聞かなくなるし、むしろ信じないのが責任ある大人、というイメージにどこかですり替わってしまったように思う。

社会に出ると、圧倒的に自分を信じないことの方が求められる。「朝起きる自分」は信じず寝る前には目覚ましをかける。「いつかやる自分」は信じずタスクリストやカレンダーで進捗を管理する。「今週中に終える自分」も信じずスケジュールにバッファを取る。

どこか自分自身を変えようとするときも、まずは自分の周囲の「人」「場所」「時間」のいずれかを変えろ、と言われる。そして「自分を変えるぞ!」という自らの意思に頼るのは、最たる悪手だとされる。端的に言うと、たとえ自らを変えたいという状況にあって尚、自分は信用するなというのが通説になっている。

やる気が出ないときも、自分の意思のせいにはしない。きっと睡眠不足のせいであり、運動不足のせい、あるいは部屋のCO2濃度のせいだと疑う。「自分の状態管理」は自分のせいとも言えるが、基本的には意思というよりも客観的に捉えられる事実、あるいは環境の側に原因を見出して改善を図っている。

ただ、そうやって「できない自分」の要因をどんどん外部化し対策していくと、いつしか自分が自分ではなく、何か上手く制御すべき対象のように思えてくる。意思を持って取り組んだり、心で踏ん張るときの力み方を忘れてしまう。そんな不安が徐々に大きくなり、20代は前のめりに取り組んできた自己制御・ライフハックの類に、最近は得も言われぬ危機感を覚えるようになってきた。

自らの意思を無視して「やりたくないこと」に対する行動の制御を繰り返すと、意思を持たない方がいっそ効率が良いことに気づき、あらゆることへのやる気を失ってしまう。本来は意思のサポートであったはずの、上辺だけの習慣やライフハックだけが残り、自分はその弱々しい波間を漂うだけの存在になる。もはやそこに自らの推進力はなく、生物的な性質を利用して機械的に振り回されているだけである。

そしていつしか「自分が何がしたいか」ではなく「自分をどうしたいか」をベースに思考し、施策を講じようとしていることに気づく。「なりたい自分」を設定して向き合うこと自体は悪くなさそうだけれど、その手前で何か抜け落ちている気がしてならない。たとえ不器用でも意志のある方向へ必死に藻掻いている方が、よっぽど健全に思えてならない。

こんな状態から抜け出すために、一体何ができるのか。まずは心の機微に目を向けることが起点になる気がする。自分がしたいことはもちろん、したくないことも気に留める。曖昧な状態も許容し、観察する。心のありように目を向け、柔軟に動けるようにする。そうやって心の揺れに対する結果を、自身にきちんとフィードバックしていけば、また意思を持とうとする気力も芽生えるのではないだろうか。

自分不信を全うすることで社会人として程々に立ち回れるようになった一方で、「自分を信じて頑張る」を軽視していたツケに、今改めて向き合わされているような気がしている。