2022-05-14

日記への信頼

かなり不定期だけれど、もう10年ほど日記をつけている。ツールやアプリは乗り換えてきたものの、基本的にはデジタルな媒体に頼っていたのだが、最近ちょっとした経緯から、初めて手書きでA4ノートに書いてみることにした。まとまった文章を手で書くのは学生の時以来で、ノートに一文字ずつ手で書くという行為がこんなにも果てしない行為だったかと気が遠くなったりもしたが、それと同時に書くときの心構えにもある種の変化があるのに気付いた。それは「書く」行為による身体性からの影響もあるが、大部分は媒体への信頼の違いから来るものだと感じた。端的に言うと「紙にこんな情報を残すなんてとんでもない!」という不安が過るのだ。

基本的に日記は読まれて恥ずかしいものだと思うし、少なくとも自分は人に読ませるために書いてはいない。でも出来事と思考の記録、それら一連の思い出としては機能してほしいので、数年後の自分 (もはや他人) が読み返して意味をなす程度には、文章としての体裁を保って書くことにしている。するとそれは同時に他人にとっても、ある程度の情報として機能してしまうことになる。

紙媒体は脆いイメージもあるが捨てない限りはモノとして残るので、ローカルやクラウドに保存されたデジタルな日記と比べて、将来的にふとした事故で人目に付く可能性が圧倒的に高いように思う。最初こそ扱いに気をつけていても、あまり興味のなくなった頃に適当に他の書物と棚で一緒にしてしまったり、出先で書こうと思って持ち出した時に置き忘れたり、うっかり他人に読まれる状況はそれこそ無限に想像できる。そんな媒体に、自分の最もパーソナルな情報を書き連ねて束ねておくというのは、実は結構勇気が要ることなのではないか。

一方でデジタルは、アプリやサービスの終了と同時に消滅してしまうリスクはあるが、他人に偶然読まれるような状況は(自分の死後を含めても)まず考えにくい。そう思うとかなり高い信頼を持って自分を開示していくことができる。そしてそれは、個人的に日記を書くという行為の大きな目的でもある「思考を一旦自分の外に出し切り、客観視する」という部分に対しても大切な意味をもつ。信頼のない相手に対して、思考を出し切ることはできない。

別に誰に読ませるつもりでなくとも、文章としての体裁を保つ以上、ぼんやりと受け手を想定して書くことになるのは日記の面白い所だと思う。そして自分はその架空の受け手への信頼度が、書いているツールや媒体によって変わってくる。(同じデジタルであっても、仕組みがローカル保存からクラウドに移行したときにすら、微妙にスタンスが揺れたのを覚えている。) そして紙が情報の記録媒体として堅牢で信用に足る裏返しとして、日記の受け手としては信頼し切ることができないのだ。

結局、日記としての意味がなくなってしまうので、デジタルの同レベルの開示を紙ノートに対して努めているものの、やはり一定の緊張や強張りを伴う形になっている。

以前、某タレントがニュースのコメントで「子供の頃、私は日記帳に名前をつけていて、何か日常で嫌なことがあると『帰ったら〇〇ちゃん(日記帳)に愚痴を聞いてもらおう』と思ってやり過ごしていた」的なことを話していた。擬人化までしたことはないが、一旦人に開示するかのような気持ちになるのにはとても共感する所があった。ちなみに書き終えた日記帳は誰にも見せずに、都度捨てていたらしい。これはひとつの信頼の高め方だと思った。

また、去年から聴いてるImage CastというPodcastで東さんが「地中深くにに埋められて、誰にも発見されないまま未来永劫存在し続けて欲しい」的なことを仰っていた。読まれたくはないが、なかったことになるのは惜しい、という矛盾するような気持ちも確かに共感できる。(話題が深くは掘られなかったので、解釈として合っているかは怪しいけれど)

ということで自分は今書いているA4ノート日記は一旦書き切り、これはすぐに捨てることにして、今後はまた安心して残せるデジタルに戻るのだろうと思う。余談だが、日記アプリはあまりにサクッと過去の日記を見返せてしまい「歳を重ねて最近やっと分かってきた」と意気揚々と書こうとした真実を、1年前に3年前にも10年前にも同じテンションで発見していることを日々残酷に突きつけてくれる。大変助かっている。


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