2014-05-10

ゆったりと。

先週末、友人とICHIHARA ART x MIXへ行った。「晴れたら市原、行こう!」がコピーなのだけど、その日はずっと雨時々曇りで、それでも想像以上のロケーションで満喫できた。田園風景にすっと伸びる線路と、ちょこんと乗った短くて鮮やかな車両。終点までの1時間で、電車は通過する風景を見事な絵葉書に変えていく。小湊鉄道と言って、鉄道写真家の人たちの間では有名らしい。イベント自体はこれに乗っては数駅で降りて、点在する展示を巡ることになる。

千葉の市原は、結構な田舎だった。
自分は千葉出身でありながらわりと都心近くに住んでいたし、今も東京に住んでいて、いわゆる田舎というものにあまり馴染みがない。電車も一時間単位で待つし、最寄りの駅から各展示の会場へもkm単位で歩く。時間的にも距離的にも、間隔の感覚が全くいつもと違っていた。

途中で、何となくイベント構成を見た時に想像した、見て、移動して、また見て…というテンポは、その土地のそれでは無かったのに気付いた。実際、巡った半日では全体の半分も見れなかったのだけど、それよりも普段の自分のテンポが早いのだと分かって、何となく嫌気がさした。日本全体で見れば、きっとこちらがイレギュラーなのだと思う。

話は変わるけど、少し前に見たツイートが頭に残っている。この方の意図と合うのかは不明だけど、ずっと抱いていた東京という場所にまつわる密度の高さへのもやもやを、つんと突かれた感じがした。こんなに密集した土地で、情報も溢れるくらい浴び続けていて、でもお互い分単位で予定を詰め込み合って、みんなが時空の隙間を探すことに忙しい状態は、どうにも落ち着かない。

ここ数年で周りを見てると、Google CalendarとLINEは密度の目盛りをもう一段細かくした気がする。FacebookやTwitterみたいな自分から隙間を埋めるものと違って、向こうからプッシュされて、拘束してくる。本来、人は年中分単位でなんか動けない気がするけど、これらはそういうことすら可能にする。個人的には、道具として少し怖い。

たまに自分で詰め込みたいこともある。でもずっと東京暮らしの身でも思うくらい、周りの人の生活密度はおそろしく高い。昼や夜、平日と週末とかって、電車の来る間隔のような、ある意味で強制余白みたいなものだと思うけれど、そういうものすら機能してない。スターバックスや映画館は余白かもしれないけれど、真に「無」の時間が日常の中に点在する人はほんとに少ない。「無」が無いと不安になる感覚を、あまり共有できない。

かといって市原に住みたいかというと違うし、東京の好きなところもたくさんある。でも場所って何よりも自分に影響すると思うので、いつか心地よく暮らせる場所を見つけたい。あとできれば今は、いろんな場所を試してみたい。

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